●ペリー来航と天下泰平の終わり
明治大学文学部史学地理学科教授の落合弘樹と申します。このシリーズでは、幕末・維新の日本の様子について、お話ししたいと思います。第1回目の今回は、ペリー来航と老中・阿部正弘による幕政改革についてお話しします。
江戸時代では、非常に長い天下泰平の時代が続いていました。しかし、幕末にはそれが大きく変わっていきます。その変化の最初のきっかけが、ペリー来航だったわけです。ペリーが日本にやってきた年は、西暦に直せば1853年になりますが、日本の十干十二支でいうと、癸丑(きちゅう)の年になります。
そこで同時代には、「癸丑以来」という言葉が非常によく使われました。それは、ペリー来航以前と以後とでは、すっかり時代が変わってしまったことを意味します。癸丑以前、つまりペリーがやって来る前は、大坂夏の陣以降、非常に長く平和な時代が続いていました。このような歴史を持つケースは、世界史的な観点から見ても非常に稀です。
戦争や大きな内乱がない状況の中で、江戸時代の日本においては非常に内発的な発展がなされます。自給自足の経済が展開していくのです。最初は、例えば生糸や木綿といったものを外国から買っていたのですが、そういったものを日本国内で生産するようになり、それが最終的には輸出に回せるぐらいの生産量になりました。
対外関係を見ても、貿易を行っていたのは、西洋諸国ではオランダだけでした。他は、中国と朝鮮のみ貿易をやっていました。また、国家として正式に関係を結んでいたのは、朝鮮と琉球だけでした。このように、東照大権現、つまり徳川家康以来の「天下静謐・外敵防御」といわれる天下泰平を謳歌していたのですが、そういった状況がいよいよ終焉を迎えるのがこの時代です。
外国について見ると、すぐお隣の中国ではアヘン戦争(1840~42年)が起きていたわけです。国内においても、体制的な危機がぼちぼち深刻化してきたため、そうした危機感が出ていました。つまり、ペリーがやってきていきなり大騒ぎしたわけではなく、ペリーがやってくる10年ほど前からすでに、政治を担当する者の間ではその危機が自覚されていたということです。
●阿部正弘の幕政改革~統制から協調へ~
そういった中で、水野忠邦は天保の改革を進めます。ここで行われたのは、できる限り財政の支出を抑える、人々の贅沢な暮らしぶりも抑制する、なるべく消費を抑える、ということでした。その一方で、物流のネットワークを大名から回収して幕府が握るようにしました。しかし、こういう方向性で改革を行うわけですが、結局、失敗してしまいました。
その後に水野忠邦に代わって幕政を担当したのが、福山藩主の阿部正弘でした。阿部正弘は、まだ20代という非常に若い人物でしたが、幕政を主導していくことになります。水野忠邦は、大名を統制し幕府のパワーをなんとか盛り返そうとしましたが、しかしながら老中・阿部正弘は、そのような路線は限界に達したと考えました。
そこで阿部正弘は、特に改革に成功した有力大名、その中でも、島津斉彬、松平慶永、山内豊信、伊達宗城の4人と結束を強めます。この4人の人物は、個人としても非常に優れた見識を持っていました。なおかつ、非常に有能なブレーンを抱えていました。そして、政治・外交にも非常に意欲的な人物でした。ということで、老中・阿部正弘は、この4人の大名を中心に日本を立て直そうとしたのです。
また阿部老中は、幕府の内部においては、海防を重視し、海防掛というものを置きます。ただし、専門の人材を置いたということではなく、とりあえず目付と勘定奉行に海防を強化させたのです。目付と勘定奉行はそれぞれ、旗本を統制する、あるいは財政をつかさどる、非常に重要なポストですが、彼らに沿岸防備の対策を練らせたのです。
●ペリー来航と阿部正弘の対応
このように改革が行われる中で、アメリカが接近してきます。それまで日本に近づいてきたのは、最初はロシア、それからイギリスでした。ここにアメリカが加わってくるわけです。アメリカは、ワシントン、ニューヨーク、いずれも東海岸を中心に発達してきたのですが、徐々に西に進出し、この時期にカリフォルニアを領土化します。
そうなると、カリフォルニアの向こう側には太平洋が広がっているということで、この時期のアメリカ人は、そこで盛んにクジラを捕っていました。目的は、クジラから油を取ってランプの燃料などにすることです。さらに、太平洋の先には中国という巨大な市場があります。つまり、アメリカは、捕鯨船の寄港地、あるいは中国に向かうルートの中継地として、ハ...