●『世界の語り方』と『日本を解き放つ』という2冊の哲学書
左の2冊は、2018年9月に出版した『世界の語り方』(東京大学出版会)という本です。副題が付いていて、1巻は「心と存在」、2巻は「言語と倫理」。読者にとって「語り方とは、いったいどういうことだろう」と不思議なタイトルだろうと思います。
右側のもう1冊は『日本を解き放つ』(東京大学出版会)で、2019年2月に出ました。おかげさまで好評をいただいているようです。こちらは小林康夫氏との対談ですが、放談といった方がいいかもしれません。日本をめぐって、哲学者がいったいどういうアプローチをするのかということを皆さんと共有したいと思って、つくった本です。
●なぜ「語り方」なのか~“what question”を問うてみる~
『世界の語り方』の本では何を考えているのでしょうか。私たちはしばしば「何であるのか」「これは何か」という、いわゆる“what question”を問うことがあります。特に、本質が大事だということになると、「そのものの本質とは何か」という問いを立てたくなります。
問いといってもいろいろな問いが考えられますが、「何であるのか」というwhat questionの問いは、いったい何に対して有効な問いなのか。哲学では、こんなことを考えようとします。問いといっても全てに有効なわけではないだろう。問いがうまく働く分野はやはり限られるのではないかといったことです。
簡単な例を挙げてみましょう。「GAFAとは何ですか」と問われると、「Google、Apple、Facebook、Amazonの略称です」と答える。この場合、単に定義のことを説明すればいいので、what questionは有効に働きます。でも、例えば「未来は何ですか」と問うときにも、what questionは利いてくるのだろうか。ここが疑問になります。
例えば、ここにペットボトルがあります。「これは何ですか」「ミネラルウォーターです」。この問いかけは有効で、われわれに理解できます。この問いを可能にしているのは、ペットボトルと私の間の距離です。どなたがこれについて問うても、答えが一緒で変わらない。それは、お互いが適度な距離を取れているからです。
GAFAの例もそうで、GAFAと私がそれほど深く関わっているわけではありません。もちろん日常的に検索をしたりAmazonで買い物をしたりはしますが、距離が取れるわけです。このように、距離を取って事実を確認するような場面では、what questionが有効だろうと思えます。
●“what question”が利かない場面とは
ところが、ここに書いたように、「関与する知(engaged knowledge)」の場合、what questionがあまり利かない場面が出てきます。ここで、私はあえて“engaged knowledge”と書きました。「関与する」です。私が何かある出来事に対して関わってしまうことが、構造的に重要だという場合があります。そのときにいったいどんな問いが可能なのかということを、考えてみたいのです。
ここでも具体的な例として、天気予報を考えてみます。今はコンピューターの性能が良くなってきたので、いろいろなシミュレーションや計算をして、天気予報がずいぶん当たるようになってきました。もちろん外れるときもありますが、あれだけの複雑系に対して迫れるようになってきたわけです。
でも、株式はどうでしょう。皆さんの中には株式市場に関わる方もおありではないかと思いますが、天気予報と同じような株式予報はできません。なぜ、できないのでしょうか。それは、株式に対してはわれわれが関わっているからです。われわれがある予想を立てると、それ自体が株式マーケットに影響を与えることになります。一方、天気予報の方は、いくらわれわれが予報しても天気に影響を与えることはありません。「台風が来るのではないか」と言ったからといって、台風に影響を与えることは多分ないでしょう。ところが株に関しては、「○○という株が危ないかもしれない」と言うと、それが直ちに影響を与えてしまうでしょう。こういう現象が、世界にはいくつかあると、私は思っているのです。
株式のことを考えていただくと分かりますが、これも非常に複雑系になっていて、そこには非常にカオス的なものがあります。われわれの関与がそこに影響を与えるという形で、より複雑な系になっていくということです。こういったものに対して、果たしてwhat questionはどれだけ有効なのでしょうか。
●“what question"から“how question”へ
ここで、さらに2冊の書籍を挙げておきました。
左側は2018年3月に出たトマス・カスリス氏の『人間哲学小史』です。「SHORT HISTORY」といいながら700ページを超える全然ショートではない本...