●武満徹に見る居住まいの美学
本書の第4部では、武満徹に触れています。小林康夫氏に宛てた武満氏の、非常に美しい字で書かれた手紙も載せています。ここでは読み上げませんけれども、やはり居住まいの美しい人だったと小林氏は言われていました。
日本を考え、日本を語るときに、このような「美的(エステティック)」なものを無視はできません。美的なものは、別に美術作品や表現されているものに限るわけではなく、何か「在り方」を指しています。美しい在り方をしている。多分、武満さんはそういう美しい在り方を継承し、体現していた人なのだろうと思います。
でも、美しいというのは何でしょうね。一体どういうことなのでしょう。
「美学」ということばができたのは本当に最近で、18世紀頃のことです。ギリシャ語の「アイステーシス(感じる)」から、「エステティーク」ということばが生まれました。「美的」というのは、やはりある種「感じる」ことに関わるもの、われわれの身体に深く関わっているものであり、その在り方なのです。
●ことばにもからだにもこころにも、スタイルとしての在り方がある
ということは、ことばとからだとこころの三つを日本に見てきましたけれども、多分この三つは別物ではない。実体としては別かもしれないけれども、ある種の「在り方」として指される方向は共通しています。
ことば・からだ・こころの実体を捉えようとするのは非常に西洋的なものだと思いますが、そうではない。ある種のスタイルとしての在り方というのでしょうか。それが、ことばにもあるし、からだにもこころにもある。
そのような次元にどれだけ敏感でいられるのか。それが、「美しい」ということに深く関わっているのではないかという気がします。
では、それは何でしょうか。「日本とはかくあるべし」とか、「日本とはこうだ」というのとは少し違うアプローチではないかと思います。「スタイルとしての日本」というものを考えるチャンスはあるような気がします。