●文系と理系の壁を超えて共有できる「語り方」へ
もう一つの取り組みは、世界の語り方ということです。ここでは「心、存在、言語、倫理」をどう語るのかということで、座談会をしました。
なぜこんなことをしたかというと、いわゆる文系と理系をごちゃ混ぜにしたかったのです。例えば、素粒子を研究している先生がいますが、その先生に向けて私が「素粒子とは何ですか?」と聞いたところで、意味がないというか、つらくなってくると思います。きっと非常に難しいことを言われて、熱が出てしまうでしょう。それはもう対話ではなくなり、「教えるー教えられる」関係に入るからで、それでは面白くないと思ったのです。
では、どうすれば違うジャンルの人たち同士が話ができるのかというと、やはり語り方次第なのです。
素粒子について、私はよく知らない。素粒子が何なのかを言われても、よく分からない。でも、その先生が素粒子をどう語るのかは理解できるかもしれない。「素粒子とは、こう、こう、こうである」と語られる場合もありますが、「素粒子を語るのって難しいんだよね。ここに問題があるんだよね」と言われたら、それは分かります。素粒子が何なのか根本的には分からなくても、です。今どう語っていくのか。そこにどんなチャンス、あるいは限界があるのか。それらのことは分かるので、それをやってみようと思ったのです。
そうすれば、学問の違いを超えて議論ができるではないか。「素粒子とは何か」となると、私などはお手上げで「そんなこと、知らんがね」となってしまいます。それには量子力学などを理解しなければいけないのだろうけれども、それは難しい。しかも量子力学には確率が大事であるらしく、その確率も、高校までに習った確率とはどうも違っているらしい。そのようになると、もう頭がついていかない。しかし、どうしてそういう発想をしているのか。どういうアプローチをしているのか。それは共有できます。それをやってみたいと思ったわけです。
●数学者が「心」を語ると、集団性が見えてきた
まずは、心の語り方です。心について、皆さんはどういう語り方をなさいますか、ということを聞いていきました。
ここに、合原一幸氏の例を出しました。合原氏は数学者ですが、非常に面白い発言で、数学はこんなところまでいっているのだなということを思い知らされます。数学者は心とは関係ないはずですが、こんな面白いことを言っています。
「一人しか人間がいなかったら、こんなふうに心とか意識が発達したかという問題なんですよ。周りに集団があるからこそ発達してきたと思うんです。集団があってこそのわたしなんだと。だから、そういう生活の仕方を人類というのは見つけて、そういう環境で育つ。脳というのは脳だけで存在するんじゃなくて、体とも相互作用するし、環境とも相互作用するし、環境の最たるものが他者なんですよね。その中で初めて存在するので、集団という存在がやっぱり大きかったんだと思います」
こんなことを数学者が言っているのですが、そう言われると納得しませんか。先ほど「私たちの心はどこにあるんでしょうね」という問いかけをしましたが、合原氏はそういうことももちろん考えていらっしゃるわけです。心や意識は単独にはあり得ない。集団があってこそ可能になるものだ、というところに合原氏の考えは来ているわけです。
これは、いわゆる心の哲学や脳科学などの中だけでは出てこない議論です。「どういう語り方をすればいいのか」という問いによって、ようやく出てきたような気がします。
●素粒子に働く力は実体ではなく情報である?
次に、浅井祥仁氏による「存在の語り方」です。実は、この方が(先述した)素粒子の先生で、ヨーロッパにあるCERN(欧州合同原子核研究所)という大型加速器の施設へずっと通い詰めています。日本の素粒子物理学のトップランナーである浅井氏もいろいろなことを語ってくれましたが、とりわけ次の内容は面白かったのです。
「素粒子に働く力というのは何なのかを考えると、なかなか面白い。これは“情報”だとは思うんです。実感としての力というのは、何かに直接触れて働くもののような印象がありますけれども、素粒子に働く力は実体に直接触れているわけではない。実はその粒子が持っている、これはある意味での情報だと思うんですけども、波としての性質に作用するのですね。波というのは、振幅と位相という概念があって、位相はサインカーブのθ(sinθ)に当たるやつです。実は力というのは何をしているかというと、その位相に作用しているんです。決して実体に働いているわけでも何でもなくて」。
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(東大EMP編集、中島隆博編集、東京大学出版会)