●ことばと想像力の次元を結ぶ『声字実相義』
空海には『声字実相義』という、とんでもなく面白い、突き抜けたテキストがあります。タイトルをご覧いただくと分かるように、声と文字と実相(リアリティー)が別物ではないことを説いています。普通われわれはそれらを区別しており、特に言語学になじんだ人たちであれば、音と書かれた文字、それらが指し示す対象としての現実のものは違うものだと考えています。
例えば、「黄色い白線」は現実にはありません。「黄色」と「白線」が矛盾しているので、リアリティーがないわけです。あるいは、麒麟(動物園にいるキリンではなく)や龍(ドラゴン)など、想像上の生物もいます。われわれはすぐに、「あんなものはない」と断定しがちですが、本当にそれでいいのかと空海は問うているわけです。
私たちの世界はそれほど単純なものではない。麒麟や龍のような想像的な次元は現実に貼り付いているのだという感覚を、空海は持つわけです。もしもそれが持てなければ、例えば「仏」はどうなりますか。あるいは、「仏を信じる」とは何をすることですか。全てが意味を失ってしまうわけだから、想像力の次元を何としても私たちの中に確保しなければいけないと、空海は言いました。
●「パソコン」からも見直すことができる複合語
このことについて、小林氏が話をうまく運んでくれました。空海が『声字実相義』で持ち出しているのはサンスクリット語の「複合語の論理」ではないかというのです。「複合語(compound)」では、異なる概念を一緒くたにする、ということが起こります。
今の日本語では、例えば「パソコン」などがそうです。「パーソナルコンピュータ」の略称が「パソコン」になったわけですが、「パーソナル」と「コンピュータ」の間には何も関係はありません。でも、われわれはそれらを一つにした「パソコン」という概念を理解できてしまいます。
このような「compoundな在り方」は、どの言語にもあります。この「複合語(compound)の論理」が、実は私たちの現実に貫徹しているのではないか、ということです。
●マルチリンガルな人・空海の使った「複合語の論理」
空海はマルチリンガルな人で、サンスクリット語、中国語(当時の中国語と古典中国語の両方)、それから当時の日本語がどんな形だったか...