●松平晃さんとコンビを組んだ理由
―― (1935年の「船頭可愛や」以降)次々とヒット曲を当てたというわけでは必ずしもないわけですね。
刑部 そうですね。古関さんの初期の頃の作品、特に戦前の作品を考えるときの重要な歌手に、松平晃さんという方がいます。今やほとんど忘れ去られてしまっていますけど、この方は藤山一郎さんと同い年です。藤山さんは平成5年に亡くなっていますから、もし長生きしていれば、多くの方がご存じだったと思うのです。
―― いつ頃お亡くなりになったのですか。
刑部 1961(昭和36)年に若くしてお亡くなりになったため、今となっては知る人が少なくなってしまいました。今、朝ドラで伊藤久男さんのことを「プリンス」と呼んでいますが、実は「歌謡界のプリンス」と呼ばれていたのが松平晃さんなのです。非常に二枚目で、鼻にかかった甘い歌声が、当時の10代、20代の若い人たちに非常に人気でした。
古関さんは、この方とのコンビが多い。なぜ、この二人のコンビが多いかと考えると、最初に当たった「利根の舟唄」を歌ったのが松平さんだからだと私は考えています。
―― 験がいいということでしょうか。
刑部 はい。大ヒットになった「船頭可愛や」の裏面「沖のかもめ」を歌ったのも松平さんです。コロムビアからすれば、古関さんはなかなかヒット曲が出ないで悩んでいるけれど、松平さんと組むとヒット曲が生まれる可能性が高いと考え、コンビを組ませたのでしょう。
―― なるほど。今もそうかもしれませんけれども、当時、作詞、作曲、歌手と、この3つの要素の相性のよさというのがあったのでしょうか。
刑部 やはり名コンビ、名トリオというのはありますね。例えば、これは面白い話なのですが、古賀政男さんの場合、藤山一郎さんとの出会いが大きい。「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」、それからレコード会社は変わりますが、「東京ラプソディ」や「青い背広で」など、戦前の藤山さんの大ヒット曲のほとんどは古賀政男さんとのコンビというのもおもしろいですね。
一方で、古賀さんが最大のライバルと言っていたのは、実は古関裕而さんでも、服部良一さんでもなく、江口夜詩さんという作曲家です。その江口さんと名コンビと言われたのが、実は松平晃さんでした。だから、松平さんのヒット曲には江口夜詩さん作曲のものが多いのです。
―― 最大のライバルと言っていた人の曲を歌ったのが、松平さんだったのですね。古関さんの曲も松平さんがたくさん歌っているということですが、大ヒットまではいかなかったのでしょうか。
刑部 はい。例えば1935年の「吹雪峠」の作詞は高橋掬太郎さんです。「船頭可愛や」などで組んだコンビで作ったのですが、あまりヒットはしませんでした。ただ、とても素晴らしい曲ではあります。それから、翌年の1936(昭和11)年に作られた「落葉恋慕」も、ヴァイオリンのソロから始まって、クラシックを髣髴とさせるようで、それでいてどこかもの悲しげな哀愁漂う名曲です。ただ、今となってはほとんど聴くことも難しい貴重盤になっています。
― これを機会にこういう曲も少しずつ発掘されて、聴かれるようになると、面白いかもしれないですね。
刑部 そうですね。
●流行歌的な要素が開花し、戦前の古関メロディが生まれる
―― この頃の古関さんの曲はどういう曲調が多いのですか。
刑部 この頃になりますと、「船頭可愛や」の頃までに作られていた曲よりも、どちらかというと短調なリズムで、リズミカルで、そして哀愁を帯びたような、大衆が好むような楽曲というものがかなり登場してくる形になりますね。古関さんとしても、いかに大衆に好まれるか、ヒットするかを意識して、作っていた作品が多い。また、聴いていて楽しくなるような曲が多いですね。
―― なるほど。ところで、松平さんとはそのような感じの曲をお作りになった一方で、ご当地ソングのような曲もいろいろとお作りになったそうですね。
刑部 そうですね。古関さんの場合は、最初はヒット曲があまり生まれませんでしたから、感じのよい流行歌の作曲依頼がなかなか回ってこないのです。一方、当時「新民謡」と呼んでいた、地域を振興するような曲の作曲依頼が来ていました。
ただ、地元の人しか買いませんから、全国的に発売されてもヒットする要素はほとんどありません。だから、そういう楽曲が回ってくると、他の作曲家たちは使い回しをするのです。どうせ力を入れて新しい曲を書いても無駄だからと、例えば、富山のために書いたら、今度は青森から頼まれたときに、富山で書いた曲を使って詞だけ変えてしまうとか。それでも、古関さんは、そういうことはせずに、全部、新しい楽曲を作っていました。