●なぜ、8カ月もレコード化されなかったのか
―― ただ、いざ、作曲家になった最初のうちは、かなり苦労が多かった。先生がこのご本(『古関裕而――流行作曲家と激動の昭和』)でも書いていらっしゃるように、なかなかヒット曲が出なかったということですね。
刑部 そうなのです。古関さんも最初から恵まれていたわけではありません。彼はクラシックの作曲家を目指していたから、国内では山田耕筰、ロシアではストラヴィンスキーを非常に尊敬していた。そういう作曲家に自分もなりたいと思っていたわけです。ところが、古関さんの場合、音楽学校も出ていませんから、コロムビアから与えられたのは、古賀政男さんなどが作曲するような、いわゆる流行歌、大衆のための曲だった。この時に古関さんが目指していたクラシック音楽的な、いわゆる芸術的なセンスというものが、かえって邪魔することになるのです。
―― 邪魔をするのですか。
刑部 ええ。古関さんは1930(昭和5)年の10月に専属作曲家になるのですけど、実際にレコードが最初に出たのは翌年、1931(昭和6)年の6月でした。約8カ月もたっているわけです。
―― それは長いのですか。
刑部 長いですね。この間、コロムビアからは給料が出ているわけです。コロムビアからすれば、ひと月に何曲という契約でやっていますから、すぐに作曲をして、それをレコード化して、ヒット曲を産んでもらいたいわけです
だけど、8カ月もの間、曲が出ていないということは、レコード会社側の意向と古関さんの芸術性というものが、なかなか折り合わなかったからだと思うのです。古関さんとしては、まだデビューしたてで若いですから、流行歌と言われても、すぐにクラシック音楽を作る夢を捨てることはできない。当然、一つの通過点だと思っていたでしょうし、どうせ出すならば、流行歌とはいえ、自分の芸術性を体現したクラシック的な音楽で作曲したいという欲が出ます。そうしたこともあって、なかなかレコード化されなかった。
そして、ようやく1931年6月に出たのが、「福島行進曲」と、裏面の「福島小夜曲(セレナーデ)」という2曲でした。「福島行進曲」は同じ福島出身で、福島にいた時から仲がよかった野村俊夫さんが作詞をしています。B面、裏面のほうは、上京する前に個展で見た大好きな竹久夢二の「福島小夜曲...