●幼児の背を叩く母の左手のように68回連続する左手のリズム
―― では江崎先生、続きまして「ショパンと子守歌とノクターン」ということですが、「子守歌」と「ノクターン(夜想曲)」というテーマを選ばれたのはどういう理由ですか。
江崎 はい。「子守歌」については、まず皆さまにぜひ聴いていただきたいことがあります。たとえばショパンのノクターンでは、左手がゆったりと伴奏系を流れるように演奏して、右手がそれに対して悠々とメロディーを歌います。これはショパンの言語といってもいいくらいの音楽のスタイルなのですが、子守歌では、左手がずっと同じことを、68回繰り返すのです。
―― 完全に同じことをずっと?
江崎 まったく同じことを。さっきの伴奏形の究極のかたちで、一つのことしかしないのですが、まるでそれはお母さんが幼い子どもに同じ間隔で背中をこうやって叩いてあげるかのように、左手が同じことを繰り返すわけですね。その左手のベースがあって、右手は一つのメロディーを途切れることなく変奏していく。そういう変奏曲になるというすごいアイデアなんですね。
右手が羽をつけたかのように、まるでこう、寝るときの私たちが、今起きている感覚と眠りに落ちる感覚のちょうどそのあいだあたりをさまよって、そして、しまいには寝ついてしまうというような、本当に夢の世界というものなのです。
いかにショパンが同じメロディーを変化させていき、果てしなくさまよわせたか。それが子守歌のスタイルで、それは「ノクターン」のスタイルから来ています。その「ノクターン」でも、今までとはまたちょっと違うスタイルのものを聴いていただきたいと思っています。
―― 分かりました。
―― それでは、今お話をいただいたショパンの子守歌を、まずお聴きいただきたいと思います。「子守歌 作品57」、ぜひよろしくお願いいたします。
江崎 はい。
(♪:ショパン作曲 子守歌 変ニ長調 作品57)
―― 本当に、繰り返しですね。
江崎 そうですね(笑)。
―― ずっと繰り返す上で、右手がいろいろ遊んでいくようなところですけれども。
●ショパンの記憶の底には、乳母の故郷の歌があった?
―― 今回、江崎先生に、これはポーランドの子守歌の音源ですか、もともとの、いわゆる民謡として歌われていた音源もご用意いただいています。これはショパンが実際に聴いていたような曲なのですか。
江崎 はい、ショパンが小さいときにお世話になっていたズザンナという乳母にあたる人がいまして、その人の出身地にあたるのが、どちらかというと今のウクライナに近いところなのですが、その地域の子守歌なのですね。それをショパンが聴いていたのではないかということで、その音源を私も最近知りました。
たとえば「ショパンが実際にそれを聴いてきたので、それを元にこれを作りました」といったことではまったくないのですけれども。そうではなくて、その子守歌を聴いたときに、私がとてもショックを受けたというか、「ああ、もしかして」と思ったのです。
この繰り返しているものが、ショパンのアイデア、左手が68回繰り返すというものに(なったのではないか)。実は、脳裏に残っていたのではないかというふうに思うわけです。なので、聴いていただけたらと思います。
―― はい。では少し聴いてみたいと思います。
(♪:『Zrodla muzyki Chopina』〈Narodowy Instytut Fryderyka Chopina〉の付属CDより引用)
―― ということでございますけれども、今は一部だけお聴きいただきました。
江崎 そうですね、これがずっと続く【♪】。というふうに、【♪】というのがずっと分散和音になっているところが、もしかしたら、【♪】、この【♪】。もちろんショパンのほうがずっとロマンチックですが、同じものが分散和音になっている。同じものを聴くと、人は眠くなると思いますが、それが、この左手につながっていたのではないか。
―― そうですね。(ポーランドの子守歌の音源は)今は10秒ぐらいで一部分だけでしたけれども、あれが延々と…。
江崎 続くのですね。
―― 繰り返していくと多分、子どもがずっとそれを聴きながら、だんだんそれが背景に行って……
江崎 そうですね。
―― あとは夢見心地で見るいろいろなもの、まどろみのなかで頭に空想が浮かぶような雰囲気も見えてきたりしますね。
江崎 そうですね。それはメロディー――こちらは歌のメロディーなのですが――、そのメロディーのアイデアをショパンは左手に持ってきて、ずっと同じことを繰り返す。その代わり右手は果てしなく違うことをするという、本当に夢の世界の作品です。
―― そうですね。そういう曲の成り立ちや仕組みを教えていただいた上で子守歌を聴くと、また違った感慨を覚えま...