●「露営の歌」がヒットした2つの理由
―― ちょうど前回スライドで見ていたところが1937(昭和12)年までということで、その年はまさに日中戦争が始まる年ですが、人によっては、古関裕而さんが本格的に出てきたのは、戦争が始まってからの戦時歌謡、軍歌で、そのことによって大作曲家の地位が確定したとおっしゃる方もいます。いずれにしても、ここで大ヒット曲が出ることになるわけですね。
刑部 この1曲でもって、古関さんの時代が来るといっても過言ではないと思います。「露営の歌」を聴いてもらうと分かるのですが、非常に勇壮なクラシックの格調の高さと、大衆が求める流行歌に見られる短調のメロディとが重なっているところが非常に大きい。
それから、出征していく兵士たちにとっては、これから戦場に赴くという雄々しさと、なんとしても生きて故郷に帰りたいという望郷の念、その悲しさが折り重なっているのが、この曲の魅力だと思います。この曲が太平洋戦争が終わるまで絶大な支持を得たというのには、今言ったような2つの要素が含まれているからなのです。
―― 曲調も、まさにマイナー、短調の曲調ですね。「露営の歌」は「勝ってくるぞと勇ましく~」という跳躍がまた心に沁みて、心が高まるメロディですよね。しかも、「東洋平和のためならばなんで命が惜しかろう」という歌詞で終わる。当時の兵士の気持ちに寄り添っている部分が当然あるわけですよね。
刑部 そうですね。「死んで還れと励まされ」という歌詞が出てきますけど、兵士たちはなんとしても生きて帰りたいと思って出征しているわけです。古関さんは中国大陸に取材や慰問で行った時、会った兵士たちが「今、国の状況はどうですか」「私の出身地はここなのですけど、ここには私の妻がいます」「私には母がいます」「私には子どもがいます」と、自分の出身地が今、どういう状態にあるのかを気にかけていた、その声を聞いたそうなのです。古関さんとしてもそういう思いを受けとめて、「兵士たちは、自分たちの故郷というのが心配でならない。必ず生きて帰りたいのだな」と感じたと言っています。
―― 先生の『古関裕而』の中でも印象的なシーンがあります。戦地へ慰問に行かれた時の話で、ある陸軍病院で演奏会があった時、「露営の歌」を...