●子どもたちに希望を与えた「とんがり帽子」
―― 古関さんは戦中、大衆を応援し、国民もそれに励まされ、がんばった。それが戦後の時代にもつながっていくということで、今度は戦後の歌についてお話を聞きたいと思います。古関さんは非常に息長く活躍された作曲家ですので、いろいろな特徴がありますが、戦時中は、勇壮で、短調で、心に沁み入るような曲が多かった。戦後になると、どういう曲になっていくのですか。
刑部 戦後は、平和、戦後復興というような形で、国民に希望や夢を与える明るい曲調のものが増えていきます。それから、クラシック的なセンスを活かした雄大な格調高いメロディラインが多く見受けられるようになりますね。
―― 『鐘の鳴る丘』の曲は有名ですが、もともとはラジオの曲だったのですか。
刑部 そうですね。それは、GHQ(占領軍)の中にあったCIE(民間情報教育局)が、戦災孤児や浮浪児救済のキャンペーンとして作らせた番組です。その主題歌が「とんがり帽子」で、人気のあった童謡歌手の川田正子さんが歌っていました。放送時間になると、子どもたちはラジオの前で正座して、夢中になって聴いていたそうです。
―― 「鐘が鳴ります キンコンカン」という歌詞があって、非常に明るく、頭から抜けるような歌声ですね。
刑部 そうですね。戦災孤児たちには、「お父さんやお母さんがいなくなっても、僕たちは元気にたくましく生きていくのだ」という希望を与え、そうではない子どもたちにも、「家を焼かれても、まだ父さん、母さんたちがいる。両親がいなくなってしまった子どもたちだってがんばっているのだから、自分たちも明日を夢見て生きていこう」と思わせるような番組でしたね。
●全ての戦没者のためのレクイエム
―― あと、今でも歌番組に取り上げられる戦後の古関さんの曲に「長崎の鐘」がありますが、これはどういう思いで作られた曲なのでしょうか。
刑部 これは長崎に落ちた原子爆弾で自らも被爆した永井隆さんが書いた作品が原作になっています。それを目にしたサトウハチローさんが詞を付けて、古関さんが作曲したものです。古関さんはこの作品をもらった時に、「ああ、そうだ。自分の戦時歌謡と共に戦地に赴き、亡くなった人もいる。長崎の原爆で亡くなった人だけでなく、先の大戦で亡くなった全ての人たちを鎮魂する歌、レクイエムのつもりでこれを書いた」と言っています。
―― 最初は暗い短調のようなメロディが流れて、「なぐさめ はげまし」のところで光が天からさすようなメジャー、長調に劇的に変わっていくという非常に印象深い曲ですね。
刑部 そうですね。最初の前奏からしても、古関さんが持っているクラシックの格調の高さがまず出てくる荘厳なイメージの曲です。それでいて、最後のところで転調するのは、原子爆弾で打ちひしがれた長崎の人たちの思いを汲み取るだけでなく、生き残った人たちの明日への希望、未来への希望を表現しているという特徴がありますね。
それから、歌謡曲の場合は、全体的な楽曲を崩さないように、短調で作るとずっと短調、長調だと長調という形で進行します。つまり、途中で短調から長調へ、あるいは長調から短調へと変えるようなものはないのです。転調しながらも全体を整えるには、非常に高い作曲の技術力が必要だからです。これは古関さんだからできることであって、他の作曲家はあまりやりません。それをやると、むちゃくちゃになってしまう可能性があるからです。
―― とってつけた感じになってしまうのでしょうか。
刑部 そうですね。
―― 「長崎の鐘」の場合は、必然さえ感じる転換ですよね。そういう意味でも見事な曲だと思います。
刑部 これは私の考えですけど、古関さんはもともとクラシックの作曲家を夢見ていたというのも大きいのではないでしょうか。交響曲には、40分、50分、1時間を超すような大作もあります。そうすると、最初は非常に迫力のある演奏で始まって、途中緩やかに転調して、そしてまた最後のところでダイナミックな演奏で終わるみたいなメリハリがあります。古関さんは3分間の流行歌の中にも、クラシックの世界観を入れているような感じがするのです。
●スポーツ音楽の名人
―― 古関さんはスポーツ音楽の名人で、戦前にも作っていますが、戦後すぐの時期に作った曲もたくさんありますね。NHKの「スポーツショー行進曲」は1947(昭和22)年、甲子園で流れる「栄冠は君に輝く」は1949(昭和24)年と、敗戦後すぐは思えないような曲調のスポーツ音楽がたくさん作られています。このあたりについては、どう見ていらっしゃいますか。
刑部 最初に苦...