●頭の中から溢れ出すメロディ
―― 「露営の歌」の他に古関さんが作った戦時歌謡で有名な曲にはどのようなものがありますか。
刑部 古関さんは自分の戦時歌謡の代表作として3つ選んでいます。1つが「露営の歌」、それから「暁に祈る」、そして「若鷲の歌」です。
―― それぞれどういう曲になのでしょうか。
刑部 「暁に祈る」という曲についてですが、古関さんが中国大陸に行った時、揚子江を渡る際、小高い丘のようなところに1人の兵士が立っていたそうなのです。その兵士の姿を見て、どんな思いで今いるのだろうと考えて生まれたのが、「暁に祈る」です。作詞が野村俊夫さん、歌ったのが伊藤久男さんで、いわゆる「福島三羽ガラス」で作った曲になります。伊藤久男さんもデビュー以来、鳴かず飛ばずでヒット曲に恵まれなかったのです。古関さんは、豪快に歌う彼の歌唱法を引き立てることによって「暁に祈る」を売り出せないかという思いで作曲したようです。これが見事に当たって、野村さんも、伊藤さんも一流の仲間入りを果たすことができました。
―― 先生のご本を読んでおりますと、「露営の歌」も、奥様と一緒に満州に旅行に行かれて、帰りの汽車の中からご覧になったものを踏まえてお書きになったということですね。「暁に祈る」も、揚子江の兵士の姿をもとに書かれたということで、古関さんは実際に見たもの、感じたものを曲にしていく、描いていくというところに特別な才能があったのでしょうか。
刑部 そうですね。古関さんは作曲する際、一切楽器をお使いにならないのです。
―― 例えば、ピアノを弾いたりはされないのですか。
刑部 はい。もちろん、頭の中だけで考えるわけではなく、見た景色、様子から、自然と頭の中に楽曲のメロディが浮かんでくる。それを五線譜に書き取るというのが古関さんの特徴なのです。
―― 感じたものがご自身の頭の中で曲として流れ出すというイメージになりますね。
刑部 だから、古関さんの場合は作り出すというよりは、自然と生まれ出てくる、湧き出てくるという感じでしょうか。
●短調への変更が奏功し、23万枚のヒットへ
―― それはすごいですね。最後の「若鷲の歌」はどのような曲になるのでしょうか。
刑部 これはもともと、東宝映画『決戦の大空へ』の挿入歌として依頼された曲です。古関さんは1943(昭和18)年の5月頃、土浦航空隊に一日入隊して、彼らの常日頃の生活を実体験して、作曲のイメージとして活かそうとしたのですが、メロディが湧き出てこないということで、相当苦労されたそうです。いよいよ発表直前、勇壮な長調の曲を用意していたのですが、発表するために土浦に向かっていた列車の中で、突然、短調のメロディが浮かんできたのです。
―― 道すがらに、ですか。
刑部 ええ。「若鷲の歌」を霧島昇さんと一緒に歌った波平暁男さんという沖縄出身の歌手の方、それからコロムビアのディレクター、担当者が一緒に乗っていて、それを聴いたところ、「いや~こっち(短調)の曲のほうがいい」という話になったそうなのです。ところが、航空隊のところに着いて教官たちに聴かせたら、「最初に作った長調の曲のほうがいい」と言うのです。それで、生徒たちの意見も聞くべきだとなって、生徒たちを集めたところ、「短調の曲がいい」と言うのが圧倒的に多く、長調を選ぶ人はわずかしかいなかったそうです。
―― 「若鷲の歌」もかなりヒットした曲ということですね。
刑部 これは23万枚も売れました。当時は太平洋戦争が激化し、食べるもの、着るものにも不自由していた時代ですから、レコードを買って楽しんでいるような状況ではないわけですよ。それで23万枚というのは相当な数です。当然、太平洋戦争中では一番売れたレコードですね。
―― 先ほどの「露営の歌」が56万部以上で戦前に一番売れたということでしたけれど、太平洋戦争の戦時中ということになると、この23万枚がベストワンだったということですね。
刑部 ええ。
●心の支え、応援歌としての戦時歌謡
―― 戦時歌謡は山のように作られていますが、支持された曲、支持されなかった曲というのが当然ありますよね。古関さんの曲は大衆に非常に支持されてヒットした一方、最近、古関さんの軍歌、戦時歌謡については、必ずエクスキューズが付く。戦後になって、戦争を鼓舞した軍国主義の歌ではないかという言われ方をすることもたくさんあったと思うのです。
ただ、いろいろと見たり、お話を聞いていますと、例えば自分の身内なり、知り合いが次々と戦地に行ったり、国としてもがんばろうとなっている中で、そういった曲を書くこと自体は、私個人としてはあまり違和感がないというか、む...