●一番の大作は頼まれた時に大変喜んだという「オリンピック・マーチ」
―― 古関さんの曲の集大成というか代表作といえば、1964(昭和39)年の東京オリンピックの開会式に使われた「オリンピック・マーチ」です。非常に有名で、人気のある曲ですが、古関さん自身はどのような曲として捉えていらっしゃったのでしょうか。
刑部 古関さんにとっても一番の大作といっていいと思います。普段、古関さんはどんな曲を頼まれたかについて、ご家族にあまりお話しにならなかったみたいなのです。ところが、この曲に関しては「オリンピック・マーチ」の作曲を頼まれたと、ものすごく喜んで帰ってきたそうなのです。うれしかったのだと思いますね。
古関さんはそれまで数多くの校歌、社歌などを作る際、可能な限り現地に行って、景色を見て、メロディをイメージしていますよね。ですから、この歌を作る時には、日本国中を回って見た景色が自分の頭の中に出てきたみたいなのです。オリンピックは日本全国民を挙げての世紀の祭典ですから、古関さんとしては今まで頼まれた各地のものを1つの集合体と考え、自然と景色のイメージが湧いて出てきたのだと思います。
―― なるほど。先ほど、古関さんが楽器を使わないで作曲されるというお話がありましたけれど、「オリンピック・マーチ」はかなり複雑で、聴いていてもいろいろな要素が混ざってくる曲ですので、さすがにピアノなどで作曲したのでしょうか。
刑部 いや。古関さんは楽器を使って作曲するということはありませんでした。
―― この曲も、ですか。
刑部 はい。これはご自身でも言っていますが、構想する時間、考えている時間が非常に長かったそうです。つまり、いろいろなパートの楽曲をどう組み合わせていくかを考えていたのですが、メロディ自体は自然と自分のイメージとして湧き出てきたので、楽器を使って五線譜にとるということはしていません。
―― これだけ吹奏楽のフルバンドの曲も自分の頭の中で作ってしまうということですね。
刑部 そうなのです。古関さんの書斎は、今も古関裕而記念館に残されていて、それを見ると分かるのですが、机が1つありまして、古関さんが真ん中に座って、お弟子さんが対面に4人くらい座ります。大変忙しいときは、例えば菊田一夫さんとのミュージカルの楽譜だとか、あるいはNHKの『日曜名作座』だとか、あるいは映画音楽、あるいは歌謡曲というように、お弟子さんたちがパート譜にとったりしているのですが、古関さんの場合、1つの作品に集中して書いているわけではないのです。ちょっと飽きると、ミュージカルの続きを書いたり、映画音楽の続きを書いたりという形だったようです。自分としてはすぐにそれに続くようなメロディが次々と頭の中に湧き出てくるということですよね。これは普通の作曲家にはできないことだと思います。
―― 同時並行でいろいろな曲が鳴るというのは、まさにプロですね。
刑部 天性の才能でしょうね。1つの楽曲をずっと書いていくわけです。それを飛ばし飛ばしで、頭を切り替えて書いていくなどという作業は、プロの作曲家でもそうできるものではありません。
●母校の後輩に贈ったメッセージ
―― さらに古関さんの幅の広さというところだと、社歌に限らず、いろいろな団体の曲も作っています。
刑部 そうですね。例えばこのスライドは宗教団体のものを集めたのですが、浄土宗もあれば、浄土真宗、日蓮宗もある。キリスト教もイスラム教もあって、新興宗教もある。古関さんはどこかの宗派に特別に属していて、系統立てたわけではなく、依頼が来れば、断らないで作るというのが、古関さんのポリシーです。ですからこれだけおびただしい数の団体の曲を書いているのです。
―― 求められたものは応えていく。常に寄り添っていくということでしょうか。
刑部 そうですね。求めに応じて、団体なら団体、宗派なら宗派をイメージして、自分なりの表現を曲にしているということですね。
―― このあたりも古関さんの魅力だと思うのですけれども、古関さんが後世に自分の姿を通して伝えたかったのは、どういうものだったのでしょうか。
刑部 例えば、彼が成功してから、母校の福島商業高校に招かれた時に、後輩に贈った言葉があります。これがとてもいいのです。つまり若い頃、自分は音楽で身を立てたいと思っていたが、周りからあまり理解されなかった。だけど、自分は作曲家になりたい、なりたいと思い続けて、有名な一流作曲家になれた。だから今の若い人たちも自分の力、可能性を信じて、なりたい、なりたいと思って、そして努力をし続けていれば、必ず自分の道を切...