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幻の舞踏組曲「竹取物語」から生まれた大切な縁と作曲家の道

古関裕而・日本人を応援し続けた大作曲家(2)作曲家の道を開く

刑部芳則
日本大学商学部准教授
情報・テキスト
当時すでにクラシック音楽界で不動の地位を築いていた山田耕筰からの励ましを受けながら作曲を続けていた古関裕而は、たまたま目にした海外の懸賞に応募。2等入賞の報せを受け、地元紙だけでなく、全国紙でその名を知られることになるが……。糠喜びに終わった入賞劇だったが、一生をともにする妻とコロムビアの作曲家という仕事をたぐり寄せた。(全8話中第2話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:12:22
収録日:2020/08/18
追加日:2020/10/06
≪全文≫

●音楽は理屈ではない


―― 先生のご著書によると、山田耕筰さんに曲を送って、見てもらったりとか、そういうこともあったようですね。

刑部 それは川俣町で川俣銀行に勤務していた時ですね。

 自分が書き溜めていた曲を山田耕筰さんに手紙で送ったところ、しっかり勉強しなさい、頑張りなさいというような励ましの言葉をもらった。これが古関さんにとって非常に励みになったわけです。

 やがて古関さんはコロムビアの専属の作曲家になりますが、実はこの時に山田耕筰さんとの文通を介した出会いが生きてくることになります。

―― なるほど。「音楽は理屈ではない」というような印象深い古関さんの言葉を、本の中でも引用されていますが、これはいつくらいの言葉なのでしょうか。

刑部 これは、福島商業学校在学中、年度ごとに生徒たちが書く論集、文集みたいなのがあって、そこに寄せた一文です。その時には、音楽は理屈ではない、静かに聴いて、楽しみなさいというようなことを言っています。理屈ばかりこねるのは、音楽を理解する人間のすることではない、と。約半世紀、50年たって福島商業高校になっている母校を古関さんが訪ねた時に、この文集を見るんですね。その時、「若い頃というのはずいぶん生意気なことを上から目線で言っている」と言ったそうです。

 ただ、そうですね、書いた当時は、地位も名声もまったくなかったわけですから、情熱的に、率直に書いていたのだと思いますね。

―― 「静に聴け、楽しく酔え それが本当の音楽聴衆だ」とあって、ある意味では、そういうふうに聴いてもらえる曲をどう作っていくかという、古関さんのその後の人生を示すような言葉でもありますね。

刑部 その通りですね。若い頃は完成されていませんから、率直に言っていたということだと思います。古関さんは後年、『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員長の時のように、いつもニコニコ穏やかで、何もものを言わなくなる。しかし、この時の理論はずっと変わらないのです。自分の地位や名声ができあがっていくと、いわゆる芸術性というのは、皆さんに自分の音楽を聴いてもらえればわかる。何もそれを相手に対して、口に出さなくても、自分の思いは自分の作った曲に出ていると、音楽で自分の理論を説明していたのでしょう。

―― 後年は、語らずとも曲を聴けという境地に至ったというわけですね。

刑部 そういうことだと思います。


●幻の名作と糟糠の妻との出会い


―― では早速、どういう形で古関さんが音楽家として、まさに出世、世に出ていったかについてのお話をお聞きしたいと思います。一つ有名なエピソードとしては、海外の作曲の懸賞に応募されたということですね。

刑部 そうですね。1929(昭和4)年頃、彼がイギリスの音楽雑誌を見ていると、そこに懸賞募集の広告が載っていて、応募したそうなのです。結果、なんと舞踏組曲『竹取物語』が入選したという知らせが彼のところに来た。これは交響曲で、商業学校の時から何年にもわたって書いていた舞踏組曲なのですが、残念ながら、楽譜が見つかっていない。ですから聴くことのできない幻の曲なのです。

 当時の福島民報とか、福島民友だとかいう新聞だけでなく、全国の新聞に、「福島の一青年、コンクールの2等に入賞する」というような形で大々的に取り上げられることになりました。これが音楽家・古関裕而の第一段階としての大きな出世作になるわけですね。

―― そして、この曲と付随しますが、奥様との出会いも、実はこの新聞記事がきっかけになるのですね。

刑部 そうですね。ただ、『竹取物語』の行方について調べた方がいて、そういう本を読むと、当時のいわゆる世界的なコンクールの場合は1等にしかなかったらしいのです。だから2等とか3等、いわゆる佳作みたいなものがあるわけではない。ただ、古関さんは自分が2等に入ったから、イギリス留学の旅費も含め、滞在中のお金なんかも全部工面してもらえるものだと思っていたようですね。だけど、実際にはそれは出ないという話になって、結果的に、古関さんはイギリス留学はしていない。お金が出ないから、自分としては行くことができないと判断したのだろうと思うのです。

 ところが一方で、新聞記事に載ったことによって、当時、愛知県の豊橋に住んでいた金子(きんこ)さん、後の奥さんになる方と知り合うことになります。金子さんから「私も実は声楽家を目指している。ぜひ、あなたに作曲してもらった歌を歌いたい」という手紙が届くのです。古関さんの...
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