●ロシア軍のウクライナ侵攻を3つの観点から考える
皆さん、こんにちは。
少し前に私は、ウクライナ戦争が起きる前に、ウクライナにおいて危機が生じること、そして今現在のウクライナの非常にクリティカルな様子とは、斯く斯くであることをお話したと思います。
当時の日本においてはかなり例外的ですが、私は大変ペシミスティック(pessimistic、悲観的)に現実を見ていました。しかしながら今考えてみると、そうした私の悲観的な見方でさえも、少し楽観的であったのではないかと思わざるを得ません。私たちは現在、非常に悲観的かつ悲劇的な事態がウクライナの人びとを襲っていることを目の当たりにしています。ここから話を始めたいと思います。
2022年3月20日時点のデータですが、ウクライナの国内外に逃れた難民の数は、1000万人を超えました。これはウクライナの人口がおよそ4200万人であることを考えると、4分の1の人びとが難民と化したことになります。彼らは、ごくありふれた当たり前のものだと思っていた平和と日常の光景を一夜にして奪われてしまいました。
中東などをみると、このような変容は大変珍しいことではありませんでしたが、改めてこのウクライナの悲劇をみるとき、私たちは中東の人びとを恒常的に襲っている悲劇と辛い現実に思い致さざるを得ません。
ウクライナ人の陥っている苦難について、まさにわが身を切られる思いで受け止めている日本人も多いと思います。私たちはその際、最初にこの問題について考える手がかりを3つの観点から捉えて、さらに深めていけたらと思います。
第一は、一般の市民の生命を無差別かつ無慈悲に奪うロシアのプーチン大統領の非常に非人道的な、残酷といってもいい政治手法です。これがまずロシア軍のウクライナ侵略で露呈した第一の点です。
第二は、ヨーロッパの地域についてです。これは戦争が行われる、あるいは行われている潜在的な戦域ということもできるかと思います。このヨーロッパ地域における核兵器の使用をプーチンが示唆したという大変重要な点は、私ども被爆国の市民としては、大変気になることです。
第三は、そもそもこうした状況を客観的に見るだけではなくて、日本そのものがどういう立ち位置にあるのかです。今回のウクライナ戦争でロシアとNATOが対立している中で、日本はいかにこの戦争の悲劇を見て、わが教訓とすべきなのかという問題があります。
●政治とスポーツを分けることはできるか
自分の国をどう見るのかについて、しばしば誤った、もしくは極端な見方をする人たちというのは、どこの国でも見ることができます。
日本やフランス、あるいはイタリアなどの国外に、スポーツのためによく出かけているロシア人の有名人たちがいます。誰でも知っている人でいうと、私も皆さんも見る機会が多いのが、フィギュアスケートの選手です。彼らの多くは、こうした海外経験から、客観的な目を少しでも持っているはずだと思っていました。
しかし、例えばフィギュアスケートのタチアナ・タラソワさんや、エフゲニー・プルシェンコさんといった優れたフィギュアのリーダーや元選手たちが、「今回のプーチン大統領の戦争の大義を信じている」、あるいは「このロシアの戦争にこそ正義があるのだ」と言って、戦争を支持しているのをよく見かけます。
そして、スポーツの国際大会において、ロシアを排除するのは、「人種主義である」、あるいは「ロシアに対する差別がある」と、彼ら、彼女たちは語ることが多いですが、果たしてその見方は正しいのでしょうか。先ほど申し上げたような悲劇に人を陥れ、さらに戦争という不条理な状態に子どもや女性、弱者たちも含めて巻き込んでおきながら、侵略した側が、「スポーツはスポーツである」、「スポーツはこういう戦争や政治とは別だから」、「オリンピックやパラリンピックはそのままやろう」、あるいは、「ワールドカップや世界選手権などもそのままやろう」などと言うことの理屈は本当に成り立つのでしょうか。
スポーツという、究極の友好や友情を育む大会において、戦争の現実があたかも存在しないかのように振る舞い、「スポーツの世界でロシアを差別するな」と言うことは、私にとって、あるいは日本人の多くにとって、ひいては世界におけるスポーツ愛好者の良識ある人たちにとっては、到底受け入れられるものではないと思います。
プーチンという国家主義者、大スラブ主義者、あるいはロシア帝国主義者の膨張主義的な大国の論理に基づいて、その高み、いわゆる上から目線でスポーツの政治的中立性について説かれたのでは、私たちスポーツ愛好者はたまったものではありません。
例えばスポーツだけとってもそうですが、他の経済等においても、プーチンなどによって庇護されたり、裨...