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『正法眼蔵』が説く本当の自己…身心脱落して自我を超える

【入門】日本仏教の名僧・名著~道元編(2)現成公案と「自己」の問題

賴住光子
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部倫理学研究室教授
情報・テキスト
現成公案は『正法眼蔵』の冒頭をなしている。ここで最初に取り上げられるのは「自己」の問題である。「自己」とは確固たる存在ではなく、その他全ての関係性、そのつながりの中で変わり続ける存在と捉えなおすことが、道元思想の出発点だと考えられる。坐禅で得られる「身心脱落」は、「空ー縁起」の自己の身心における顕現なのだ。(全4話中第2話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:13:38
収録日:2020/09/30
追加日:2022/07/02
ジャンル:
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≪全文≫

●『正法眼蔵』の冒頭の言葉「現成公案」を読む


―― 今回は実際の道元の文章を見ていきたいと思います。最初が『正法眼蔵』の「現成公案(げんじょうこうあん)」ということですが、これは『正法眼蔵』の冒頭の言葉ということですか。

賴住 そうですね。冒頭に現成公案という巻があります。その中の前半に出てくる言葉になります。

―― では、読んでみたいと思います。

「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」

 ここをぜひ読み解いていただければと思います。

賴住 まず「仏道をならふといふは、自己をならふ也」で、仏道を習うのは自己を習うことだから、自分自身のあり方がどういうものかを知ることが、仏教を学ぶうえでは不可欠なのだと、道元は説いています。

「自己」というと、私たちはすでに分かりきったように思いがちですが、私たちの思っている自己は仮の姿である。本来はどうなのかということを、仏道の教えに従ってきちんと理解しましょうということを、ここでいっています。

―― そうなりますと、この「自己」にはかなり深い意味があるということですね。

賴住 そうですね。


●関係の中で変わり続ける「自己」


賴住 次の「自己をならふというは、自己をわするるなり」というところは、非常に重要だと思います。私たちは「自分がある」と考えていますが、本当は自分というのは私たちが思っているような形ではない。それを「自己をわするる」という言葉で、自分のおもう「自己」を忘れ、本当の「自己」とは何なのかを考える、ということです。

 仏教の言葉では「無我」となりますが、私たちの思っているような固定的で確固たる「私」というものがあるわけではないのだ、ということをここでいっているのです。

 その次の「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」というところですが、「万法に証せらるる」の「万法」はありとあらゆる存在ですから、ありとあらゆる存在によって、確かなものとして、私たちはここにある、ということです。

 私たちは、なにか確固たるものとして「自分」というものがあって、その自分と何かの存在が関係を結ぶと考えていると思います。しかし、そうではなく、本来の自分は「万法に証せられて」ある、つまりあらゆるものとのつながりによって確かなものとされている。だから固定的な私は本当の私ではなく、忘れるべきものなのだということになるかと思います。

 前回(親鸞編)の話で「空ー縁起」という言葉を出させていただきましたが、まさにこれも「空ー縁起」の考え方になってくるわけです。

―― 「空」とは「からっぽ」とか「ない」ということではなく、自分というものはいろいろな関係性の中にある。明確で絶対的な自己というのは実はないのですよ、というのが「空」の意味だというご説明でした。この「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」も、まさにそのことを言っているということですか。

賴住 はい、そのことをいっていると思います。私たちは、生まれてくると名前を付けられます。その名前は生まれてから死ぬまで一定だから、私たちは名前によって指し示されているこの私も一定であって、変わらないと思いがちです。しかし、仏教の考え方では、決してそうではない。名前というのは仮のものであって、名指されているものは変化し続けているし、関係の中で常に変わっている。これが、存在や人間に対する仏教的な考え方だと思います。


●親鸞と道元の共通性を示す「身心脱落」


賴住 さらに「万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」のところで、「身心脱落(しんじんだつらく)」がいわれています。「身心脱落」は、自分の身も心も執着がなくなって、非常に自由な解脱の境地に達することを指します。

 私たちが「自分」というものに固執しているかぎり、そういう「身心脱落」には至らない。自分というものを手放し、あらゆるものとの関係性の中にあって、今、ここにこうしている自分を見極める。それによって初めて、自分の身や心に対する執着がなくなって解脱できるということを、道元はここでいおうとしていると思われます。

―― ちょうど親鸞編の講義で、「本来、阿弥陀仏というものの形があるのではなくて、全て光である。また本来は自分自身も光なのだけれども、自分には煩悩というものがあるので、それが見えなくなっている。あるいは、形あるものにとらわれて、執着してしまうのだ」というお話をいただきましたが、今のお話もそれに近いところなのでしょう...
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