●『正法眼蔵』の入り口『弁道話』が述べる「修証一等」
―― それでは、次の文章にいきたいと思います。
『弁道話』というものですが、これはどういう位置づけのお話ですか。
賴住 『弁道話』というのは、道元が『正法眼蔵』を書くのに先立って書いたといわれています。『正法眼蔵』は非常に読みづらいところがありますが、その内容が分かりやすくまとめられていて、『正法眼蔵』に入るための導入に位置づけることのできる著作ではないかと思います。
―― では、さっそく読んでみたいと思います。
「仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆへに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。」
賴住 これは道元の非常に重要な考え方である「修証一等」について、端的に語っている部分です。
「修証一等」というのは、次に「証上の修(しゅ)」と書かれているように、「悟り(証)の上で修行(修)する」ことです。日常的な行為をなす場合、私たちは「あれをするために、これを行う」と考えます。しかし、修行については、「悟りを開くために修行する」というのは言い方としてないわけではないのですが、修行と悟りの構造を考えたとき、悟りをゴールや出発点として修行を始めるということは本質的にあり得ない、と道元はいっています。
―― これはまた、一般の人が思うこととは違いますね。
賴住 そうですね。
●修行=悟りの世界では、「悟りたい」気持ちが妨げになる
―― 普通、修行するのは悟るためや道を究めるためというイメージですが、そうではないということですね。
賴住 そうなのです。私たちは実はすでに「空ー縁起」の世界にいる。つまり、あらゆるものがあらゆるものとつながり合い、働き合う世界の中にいるけれども、煩悩によってそれが見えなくなっている。執着があるから、それが分からなくなっている。だから、その執着をなくし、自分たちが本来はそこにあるのだと気がつけば(その「気づき」が悟りであり修行になるわけですが)、もう私たちは真理の世界の中で修行している。このように、一種の循環になっているのですね。
―― なるほど。もともとがそうなのだから、修行というものも、要はそこに入ればいい。だから悟りと修行は一緒だという発想ですか。
賴住 そうなのです。そのように道元は考えていたと思われます。
「証の上で修行している」からこそ、「初心の弁道」、要するに「今からこの修行を始めます」という初心者が初発心して行う修行もまさに「悟り」だということになります。「初心の弁道」が、「本証」すなわち本来的な悟りの全体なのです。
だから、「修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれ」ということで、修行するときに、ゴールとして悟りを置いて、そこに向かって私たちは修行していると考えるのではなく、ただ修行に徹すれば、悟りの世界は実はそこに現われているということを、この文章の中で道元はいっていることになります。
―― そうすると、例えば「悟りたい、悟りたい、悟りたい」と思って修行するのは、かえって間違いなのだということですね。
賴住 そうですね。それが執着になってしまうということで、そういうことではないと、道元はここでいっていると思います。
●日常生活=修行=悟りの現われと考えた「禅」の真実
―― これはまた一般のイメージとは違いますが、確かに禅宗のお寺へ行くと、「日常生活がすなわち修行」というような発想で、食事をするにしても掃除をするにしても心を込めてというお話をうかがいますが、そのもとはそういう思想にあるのですか。
賴住 そうですね。もちろん坐禅が一番中心にありますが、坐禅だけではなく、掃除をしているときも食事をしているときも、どれもみな修行であって、そこに悟りが実は現われているという考え方になると思います。
道元は、日常生活の中での修行を非常に重視していて、『正法眼蔵』の中には「洗面」という巻があります。顔を洗うときにはこうしなさい、手ぬぐいをこう使いなさいと、そういうことまで、そこでは非常に細かく言っています。それは、日常生活がすなわち修行であり、悟りの現われであるというところから、日常生活を揺るがせにしないという考え方が出てきているのです。
―― なるほど、そうですね。普通の生活も、このお話からすれば、悟りの全体なのだから、心を込めて毎日を送るのだというイメージになってくるわけですね。
賴住 そうですね。そういうことです。
―― よく分かります。
●利他行のための「菩提薩埵 四摂法」
―― この後、次のお...