●なぜ日本の文学は歌が散文よりも古くからあるのか
折口信夫は日本文学の成り立ちについて、非常に早い段階で「律文学」、つまり決まり事のある詩であることに気づきます。簡単にいうと「5音句」「7音句」に区切る。5音句と7音句に区切ると、なんとなく和歌になってしまう。なんとなく歌のように聞こえます。
「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ」
これは「よい人がよしとよく見て、よしと言った吉野をよく見なさいよ、今のよい人たちも」という意味の1つの歌になっています。5音句と7音句に区切ると、なんとなく歌のように聞こえるのです。
標語でも「狭い日本 そんなに急いで どこへ行く」や、ちょっとした注意の看板も「この土手に 登るべからず 警視庁」とするなど、5音句と7音句に区切れます。5音句と7音句に区切って声を掛け合うことが、神とのコミュニケーションのための1つの約束事だった。そこから日本の文学が発生するのです。
さらには神様がやってきて、「おまえたちの村は、幸せにしてやろう」などと言って「呪禁」(じゅごん)、つまりおまじないの言葉を言ってくれる。それを長い間、数世代にわたって伝えていくことで、言葉が洗練されていく。これが「日本文学の発生」というわけです。
これがまた難しくて、発生と成立はどう違か。成立はというと、712年に稗田阿礼(ひえだのあれ)が読んでいたテキストを、稗田阿礼がいなくなっても読み伝えられるように太安万侶(おおのやすまろ)が書き連ね、注記をつけて誰もが読めるものにした。これを712年に元明天皇に献上したのが、成立です(編注:(『古事記』が編纂された年)。
また『万葉集』は、8世紀中盤頃に編纂されます。編纂者の1人に大伴家持(おおとものやかもち)もいたであろうと考える。これらは時間的なものですが、例えば、このような考え方もあるのです。
なぜ日本の文学は歌のほうが古く、散文の発達が遅れているのか。なぜ文学という意識が生まれてくるのか。それは、文学という意識が生まれてくるために宗教的な何らかの詞章が文学になっていく道筋があるから。なぜなら、神様が与えてくれた言葉を長く保持するにはそうする必要があるから。いわゆる無文字社会(文字がない社会)では、そういう形でしか長く言葉を伝えていくことができないから、というわけです。
同じような現象は、例えばインドの原始経典である『スッタニパータ』にもあります。『スッタニパータ』も繰り返しがやたらと多く、韻を踏んでいるものも多い。つまり詩とは、みんながその内容を理解しながら長く伝えていくために、いろいろな工夫が時間とともになされ、文学の形になったものと考える。これを「宗教文学発生説」といい、折口信夫はこの宗教文学発生説を取ったのです。
●大掃除もおせち料理も「おもてなし」で説明できる
常世からやってくる神への憧れから、それをおもてなしする。おもてなしするためのさまざまな工夫。言葉の工夫、舞の工夫、歌の工夫、室内の装飾の工夫、着るものの工夫など、さまざまなことが行われる。
この感覚は、われわれの生活にまったくないわけではありません。例えば、家の中を散らかし放題の人も、12月20日ぐらいを過ぎると「ちょっとはきれいにしておこう」という気分になります。多くの場合、ちょっとはお客さんが来ます。お客さんが来ない家でも、「お正月ぐらいは、きれいにしておかなければ」となります。
そして「お正月はやはり、おいしいものを食べなければ」とみんな思うわけです。おせち料理は、今や私の家でも買ってきたものを使います。1品ぐらいは作りますが、そうして用意する。これもお客さんをもてなすためです。
おせち料理は12月31日の昼に届いても、「ちょっとお腹が空いたから、今日の夕御飯で食べよう」とはなりません。これには理由があり、おせちの「せち」は「節」で、節は正月節のことです。正月節に食べる料理がおせち料理で、だからそれ以前に食べてはいけないのです。
ではなぜ食べてはいけないかというと、まずはお正月にやってくる神様に食べていただくために、お供えしなければいけないからです。お供えしたものをわれわれはいただいて食べるので、勝手に食べてはいけないのです。
これは、「お正月に何かが来る」という感覚から来るものです。そう考えると、お正月には注連縄(しめなわ)を張ります。ビルディングでも、門松を立てないとお正月らしくないと感じます。そこに誰かがやってくる。その歓迎のために、何かを立てることが極めて重要で、目印になるものに神様が寄りつくという考え方があるのです。
これを折口信夫は「依代」(よりしろ)と名づけました。 その「依代」は、神のシンボルにもなる。本来は神様を寄せるた...