●専門家さえも陥る「合理性の罠」
―― 本日は紀伊國屋書店(新宿本店)3階のアカデミック・ラウンジからのお届けということで、先生、この場所はどんなご印象ですか。
小原 素晴らしいですね。このアカデミック・ラウンジもそうなのですけれども、書店として本質的な魅力というのですか、そのようなものを感じる書店で、今日はこういう場所でお話ができるのを大変嬉しく思います。
―― 本当に知に囲まれた場所です。本日はこちらの『戦争と平和の国際政治』というご本についてお話を伺ってまいります。この本をもうお読みになった方も多くいらっしゃるかと思うのですけれども、私が最初に感じましたのは、現在起こっていることと国際政治の考えなり、議論なり、学問と政治ががっぷり四つになっていて、両面で理解ができるという大変有難い本だということです。限られた時間ですので、そのポイントを先生にお聞きしてまいりたいと思います。
最初に私が印象深かったのは序章の部分です。当然、大きな問題というとロシアによるウクライナ侵攻ですけれども、思い起こすと、戦争が始まる前の段階ないし始まった直後の段階で、「専門家」と呼ばれる方が読み誤ったという非常に印象深いお話を書いておられます。
例えば、先生、一番の読み誤りというと、まず戦争がそもそも起こるのかどうかというところですね。
小原 はい。私はロシアの専門家でもありませんし、軍事の専門家でも歴史家でもありません。ただ、外交の実務というものをやって、その後、理論を大学で勉強、研究してきたということもあって、そうした自分の経験だとか知識から、「これはどうしてそういうことになったのだろう」ということを考えてみたときに、序章にも書きましたが、一つは「合理性の罠」ということがあったのではないかということです。
これは国際政治を勉強されている方には特にそうだと思うのですが、国内社会と国際社会は全く違うわけです。
何が最も違うかというと、国内社会というのは中央政府があって、そのもとで一元化されたような「法の支配」というものがあるわけです。何か法に違反することがあると警察に捕まり、裁判を受けて、それなりの罰を受けるわけです。
ところが、国際社会に今、国内社会にあるような中央政府がないのです。世界政府もありません。国際法はあるのですが、その強制力という点ではやはり不十分なのです。
今回のロシアの侵攻も完全な国際法違反です。国連憲章違反でもあります。それから、人道法にも反するようなことです。
こういうことが本当に起こるのか起こらないのかといったら、おそらく戦前は、多くの方々の合理性からすると起こらないだろうと。こうした、われわれ自身の持っている合理性というものと、プーチン大統領や、われわれ以外の人たちの合理性というものは違ったのではないかということがおそらくいえると思うのです。
つまり、主権国家の上位にあるような、より大きな権力主体というものが国際社会にはないとなると、どうしても普遍的な正義だとか、普遍的なルール、あるいは普遍的な道徳ができにくいのです。
よく冷戦が終わった後に、「普遍的な価値」ということがいわれました。フランシス・フクヤマなどによると、これでもって人類の歴史の進歩はもう終わるのだと。つまり、世界に自由だとか民主主義だとか、あるいは人権の尊重、法の支配というものが広がっていき、人類にはこれ以上の進歩はもうなくなる、歴史は終わるのだということを、彼は言ったわけですが、どうもそうではなかった。その中で、今回の戦争が起こってしまいました。
それは、やはりプーチン氏の頭の中にある合理性、あるいは正義というものと、われわれが持っている合理性、あるいは正義というものが違っていたのではないか。その点から序章を始めたわけです。
―― はい。通常であれば「合理的に判断すれば戦争をしないはずだ」という、その「はずだ」の前提自体がもう違ってしまったということですね。
小原 そうですね。「合理性の罠」というのは、われわれ国際政治学、あるいは国際関係論というものを研究している学者からすると、どうしてもシンプルに考えないといけないので、国家というものを、いわゆる個人の行動に擬人化するわけです。
国家というものがどう動くのかという相互作用を国際政治といっているわけですけれども、この相互作用というのはそうしたものではなくて、国家というものを個人に擬人化したような形で、人間の行動として捉えると分かりやすいということで、その中で、人間というのはこのように行動するだろうという推測を立てていくわけです。
そこで、「合理アクター・モデル」というものを作り出すわけです。つまり国家...
(小原雅博著、ちくま新書)