●ロシア軍兵士の「命は鴻毛より軽し」
皆さん、こんにちは。
日本語には、もともと中国に由来する言葉として、「命は鴻毛(こうもう)より軽し」というものがあります。人間の生命は鳥の羽よりも軽いという意味です。私は、ウクライナに侵攻したロシア軍の兵士たちを見て、プーチン大統領は兵士たちの生命をどう考えているのかと思うたびに、この言葉を思い出すのです。
私たちの反省として、戦前の帝国陸軍はまさに兵士の命について「鴻毛より軽し」といった感覚で接していた気配がありました。しかし21世紀の現在に、資本主義のもとで繁栄を極め繫栄する基盤もあるはずのロシアにおいて、国民にその幸福が届けられず、大統領の栄耀栄華を支えるためにウクライナへの侵攻が正当化されるのを見ては、現代人として唖然たらざるを得ない思いがするのです。
つまりプーチン氏においては、「プーチンあっての国民」である。そして、「プーチンこそがロシア国家=母なるロシア」である。母なるロシア、祖国としてのロシアの体現者として、エリートであるプーチンがいてこその国民である。こうした独特な国家観は私たちには信じられないほどですが、ロシアの一部においては強いものがあります。
すなわちもう一度申しますと、国民は母なるロシア──人になぞらえるとプーチン氏ということになります──プーチン氏を守る必要がある。しかしながら、母なるロシアすなわちプーチン氏のほうには、体を張って国民を守る意識は希薄である。すなわち兵士たちは国家のために倒れても仕方がない。戦前の帝国陸軍の用語などを借りれば、まさに「撃ちてし止まむ(ん)」の言葉につながるような若い兵士たちの姿。ロシアのこれからの将来を担うはずの若者たちの生命を全くいとわず、その戦死について注意を払うことが少ない点は、たいへん遺憾です。
●社会的エリートだけが重要視されるロシア社会
現在、日本やアメリカにおいては、国家は基本的に「国民の自由」と「国民の権利」を守るために存在します。抽象的な存在としての国家を守るため、あるいは国家を代弁するとされるエリートを守るために国民がいるというようなことを信じ、語るような者がいる可能性はほとんどあり得ません。あくまでも国民の自由・生命・権利を守るために国家は存在するのであって、その逆ではないのです。
ところがプーチン氏は、まさにスターリン的な発想と共通する部分を持っています。スターリンからプーチン氏に至るまで、ロシアにおいては、個人や社会というものは国家や独裁者よりも重要度が低い、ともすれば重要でないと考えられがちになっています。
個人として重要視される人がいないわけではありません。個人として重要視される存在もいるのです。大きな影響力を持ち、国家を運営し、国家を支え、国家を護持する“社会的エリート”だけが重要視されるという風潮です。
国家保安委員会、KGB、またKGBの前身は「ゲーペーウー」(ГПУ:GPU)と言いましたが、こうした秘密警察に由来する保安機構の出身者であるのがプーチン大統領です。さらに、彼の権力を支えるのはまさにKGBの末裔である「ロシア連邦保安局(FSB)」です。基本的にFSBは秘密警察ですが、この連邦保安局と結びつく内務省、職業軍人たちの利益を体現する国防省などの機関や、それに関連する人間たちは、昔のロシア語では「アパラチキ」というのが近い存在です。
「アパラート」(аппара′т)という国家の装置を担う人々が「アパラチキ」と呼ばれたわけですが、それに相当する「国家の人間」とも呼ぶべき人たちこそが、いわばエリートであり、彼らこそがプーチンに代表されるロシアを支える集団であるという理解です。
●シロアリのような「シロヴィキ」の行為
これらの官庁や機関はいずれも武力官庁、武力省庁です。ロシア語ではこういう武力のことを、「シーラ」(сила)、「シルイ」と呼びます。シーラ・シルイを持つ人たち、それを担う人たちという意味で、彼らは「シロヴィキ」(силовики′)と呼ばれます。このシロヴィキたち、力に頼り、力の省庁に属するシロヴィキたちは、自分たちこそ最高の愛国者である、そして国家の最終的な保護者である、と自認するわけです。
しかし彼らはプーチン氏を含めて、ロシア国家というものを内部から腐食させる、私に言わせると「シロアリ」のような存在です。シロアリというのは何か。
これは当初有名になった話で、今も十分に解決されたとは思いませんが、前線の兵士たちに戦争を行うために不可欠な食糧や弾薬のような物資が行き渡っていないという驚くべき話です。食糧も、賞味期限・消費期限を数年も経たものが支給され、弾薬に関しても持続的に使えないような非常に旧式のものが支給されている。このような驚くべき現象が存在したわけ...