●アジアとヨーロッパにまたがるロシアの自意識
皆さん、こんにちは。今日はロシアのウクライナ侵攻問題について、できるだけ全体的に、そしてより歴史的・大局的な観点を含めてお話ししてみたいと思います。
18世紀から19世紀にかけて活躍したロシアの思想家にピョートル・チャーダーエフという人がいます。チャーダーエフはヨーロッパへの留学などを経て、「自由とは何か」「人権とは何か」、そして「人々の生き方とは何か」ということを真摯に考えました。その結果として、「18~19世紀帝政ロシアにおける自由の欠如」という問題について深い考察をするようになった初期の思想家です。
チャーダーエフの代表的な作品は『哲学書簡』と呼ばれるもので、元来フランス語で書かれていますが、その中にこういう一節があります。「ロシア人は人類全体の一部を構成するというよりは、むしろ世界に大きな教訓を与えるためにだけ存在する民族なのです」というものです。
どういうことを言っているかというと、ロシアというのはヨーロッパやアジアの他の国々と違って、ヨーロッパとアジアにまたがる巨大な国だということが、まず第一の前提です。すなわち、チャーダーエフの言葉を借りるならば、「ロシアはアジアとヨーロッパの大きな分かれ目、その分岐する場所にあり、肘の片方をドイツに置いて、もう一方を中国に置いている」という比喩になります。すなわち、ロシア人はアジアでもあり、ヨーロッパでもある。これは、後に他の人たちが体系化したり主張したりすることになる「ユーラシア国家(ユーラシア国家論)」という考えにもつながるものです。
こうした巨大な国家であるロシアは本来、知性と想像力を自らの中に融合し、かつ世界の歴史をロシアの文明と融合させて新しい世界を作り出していく。そのようにロシア文明と世界史を結合させる使命を持っているはずだったということです。
●人間の自由や多様性をないがしろにしてきたロシアの歴史
しかしながら私の考えは、少し違います。今回の話はウラジーミル・プーチン大統領を主役として語ることになりますが、プーチン大統領が尊敬したピョートル大帝やエカテリーナ二世といった人々(の存在にさかのぼってみることにしましょう)。彼らは文明の本質ともいうべき「人間の自由」や「人間の多様性」を尊重することを使命感とする流れをロシアに定着させることはありませんでした。また、ピョートル大帝やエカテリーナ二世自身の中にも、そういう自由や多様性へのあこがれは大変希薄であったということを、遺憾ながら語らざるを得ません。
ピョートル大帝の名前を取ってつくられた新しい都こそが「サンクトペテルブルク」です。今のプーチン大統領の出身地であり、モスクワに次ぐロシア第二の都です。しかし、ここサンクトペテルブルクというヨーロッパを模した大都会を建設しながら、西ヨーロッパにおいてとりわけ重要とされる、人々の自由やものの考え方の柔軟さ、そして多様性の受容には成功しませんでした。今回、私たちがロシアのウクライナ侵攻を考える際、ここはすこぶる重要なポイントの一つになってくるのではないかと思います。
すなわち、この二人の皇帝を尊敬し、部屋にその額を掲げているとされるプーチン氏は、「ロシアはアジアでもなく欧州でもない、それを超越した『ユーラシア』という世界に教訓を与えるための、厳然として独特な存在なのだ」と認識しているように私は考えています。
実際チャーダーエフは、ロシアがヨーロッパより遅れて歴史に登場したということを重視します。遅れて登場したのは日本の場合についてもいえるのですが、必ずしも悪いことだけではありません。チャーダーエフは、欧州に遅れて歴史に登場した分だけ、欧州が犯した誤り、過ちを繰り返さず、それらを教訓として自らのものとし、新しい歴史を作っていく、というメリット(利点)に恵まれているはずだと、善意から信じたのであります。
●プーチン大統領の信念は「大ロシア再生」にあり
山内 しかしながらプーチン大統領は、ロシアが多民族社会の性格として多くの民族からなり、従ってそこには多様性もあると語っています。実際そうした観点で、ユーラシアに位置していることを十分認識することでユーラシア主義の立場を主張もします。さらに、かつてのロシア領の回復、すなわちロマノフ朝のロシア帝国とソ連という帝国と連邦の解体という二つの大きな事件によって、20世紀に消え去った統一国家としての「大ロシア再生」こそが自らの使命であると信じます。
その蘇生、復活、ひいては拡大のためには、すこぶる狂暴な手段、すなわち暴力や侵略の最も極端な形態としての戦争さえ辞さない。このような態...