●錯綜するリベラリズムの思想と「現代リベラリズム」
―― 続きまして、「現代リベラリズム」になります。これは(第6話でお伝えした)ニューリベラリズムの流れが分からなければ、そこも分からない、ということになりますか。
柿埜 そうですね。今、特にアメリカや日本で「リベラリズム」とカタカナでいうと、この現代リベラリズム(社会リベラリズム)――あるいは本当はニューリベラリズムといってもいいのですが――を指すことが多い。
そこで、ややおかしな話なのですが、ニューリベラリズムといって登場したホブハウスやホブスンといった人たちは、途中から「ニュー」を付けないで、自分たちのことを「真のリベラルだ」と言い出すわけです。
―― なるほど。
柿埜 古典的リベラリズム、古典的自由主義とは言っていることがまったく逆なのに、「自分たちこそ真の自由主義なのだ」「真のリベラリズムなのだ」と言うのは、いったいどういう意味かと思ってしまわないでもないのですが、途中から「ニュー」を付けないで「リベラリズム」と自分たちのことを言うようになります。
ですから、「現代リベラリズム」という言い方をしばしばしますけれども、これは基本的には「ニューリベラリズム」とイコールだと思っていただいて構いません。
―― そうすると、欧米においてもリベラリズムといったときに、そもそもの「自由放任的なもの」、あるいは「侵害されない権利を重んじる」というリベラリズムと、「ニューリベラリズム=積極的に介入していくべきだ」という思想が、混同してしまっていることになるわけですか。
柿埜 これはなかなか困った問題なのですが、両方が併存して「自分たちこそがリベラルだ」と言い、互いに相手のことを「偽物だ」と言い張っているという、おかしな事態になっています。
しばしばアカデミックな世界でいわれる現代リベラリズムというと、ここ(スライド)にも書いている通り、裁量的な景気対策を行う、規制や国有化を進めて経済を管理する、社会保障や生活保護をとにかく充実させる、あるいは「積極的差別是正措置(アファーマティブ・アクション)」というやり方で、少数民族などマイノリティの方を優遇するような措置を取る、そういった政策をとる考え方は、今でいうリベラルと理解されているものになっています。
●経済停滞で「大きな政府」が維持できなくなった
―― まさにこれは「大きな政府」という形になります。これが大恐慌から1960年代までは世界的に有力だったということですが、1970年代以降に経済停滞が起こってきて、この介入主義が困難になっていく。再分配政策を負担しきれなくなっていくことになるわけですね。
柿埜 ええ。これが現代まで続いている大きな問題です。
しばしば社会保障の削減といったものは、「特別な弱者切り捨てをやろうとしている悪い人たちがいて、そういう人たちが、とんでもない政策を推進しているから、切り捨てが起こっているのだ。けしからん」という話になりがちです。ですが、社会保障費のカットは、例えば日本では社会党の村山政権だってカットしていましたし、フランスでもミッテランやオランドといった社会主義政党の政権がありましたが、皆カットしているわけです。
どうしてこういうことが起こるかというと、1970年代以降に経済成長が停滞するようになり、社会保障のコストは、いずれにせよ負担しきれなくなってきているからで、やむを得ずカットすることになっている。この状況は、どこでも実は同じなのです。
だから、特定の思想や何かけしからんものがあるというのではなくて、このまま放置したら社会保障が破綻するので、カットせざるを得なくなっている、という現実があるのです。
こういった経済が停滞してしまっている原因の一つは、やはり基本的にニューリベラリズム以来推進されてきた経済政策がかなり高コストな政策であって、経済成長をむしろ停滞させるような傾向がすごく強いものだったことです。これをうまく抑えることができなくなっている、ということが背景としてはあるわけですね。
●しかし、「第三の道」も行き詰まって……
柿埜 1990年代から2000年代には、「第三の道」といわれる――これはブレア首相の顧問だったらギデンズという人が提唱したものですが――「市場経済はある程度、評価すべき点はある。あまりにも低く評価しすぎたのは間違いだった。大きな政府は間違いだった」という考え方と、同時に、多文化主義的なもの――これはある意味ではもともとのリベラリズムにあった多様性を尊重する、自由を尊重するという考え方――これらを両方、推進するという考え方が出てきます。
ブレア政権やクリントン政権が「第三の道」の典型的な政権といわれます。ある意味...