●ベンサムの考えた「功利主義」…「最大多数の最大幸福」と自由主義
―― 続けて、〈ロック「自然権」からベンサム「功利主義」へ〉です。ここにあるのは、ロック、あるいは啓蒙思想家たちが前提にしていたものは自然権や人権思想だったのですが、ベンサムの主張に変わっていき、神学的な議論ではなく現実的な発想で自由主義を正当化したということです。これはどういった意味になるのでしょうか。
柿埜 先ほど(第3話)のスミスやヒュームなども、実はあまり自然権など、そういった発想の神学的議論はしていなかったのですが、神学的な議論ではなくて、本格的に自由主義を正当化する議論が出てきます。それが、ベンサムが考えた「功利主義」という考え方です。
功利主義は、「最大多数の最大幸福」というスローガンが有名ですけれども、社会全体の幸福を最大にするような政治制度を考えよう、という考え方ですね。
経済学でも「厚生経済学」という言い方がありますが、「社会的な余剰の分析」(やや専門用語になってしまって恐縮ですが)という、基本的には同じ考え方に基づいて経済政策の良し悪しを判断する学問があります。だから、ベンサムの考え方は、現代でも通用する考え方です。この最大多数の最大幸福になるような制度とは、結果的には自由主義がまさにそういう制度になる、というのがベンサムの主張でした。
なぜかというと、自分の幸福は、だいたい皆、自分が一番分かっているわけです。だから政府が、他人から侵害されたり、政府自身が個人に危害を加えたりしないようにする制度をつくれば、個人が自分の幸福を追求する。そうすれば社会全体の幸福度が最大になる、というのがベンサムによる自由主義の正当化です。
●功利主義が抱える「両義性」
柿埜 功利主義的に考えれば自由主義の考え方は基本的にはうまくいくわけですけれども、功利主義の考え方では「全部、放っておけばいいのだ。自由放任がいいのだ」ということには必ずしもなりません。
最大多数の最大幸福を、むしろ大きくするような規制もある。例えば、環境汚染に対する規制といったものが考えられます。または、ある種の再分配政策――あまりに貧乏な人の幸福はすごく低くなってしまうから、そういう人たちを少し豊かにすることはむしろいいのではないか、という発想が出てくる。そのため、功利主義的に考えると、自由放任がいいということにはならないわけです。
ベンサムの弟子のジョン・スチュアート・ミルは、「特別な理由がない限り、原則として自由放任がいいのだ」と言いつつ、「政府関与が必要な場合もある」と書いています。
―― ですから、「最大多数の最大幸福」を実現するためであれば、むしろ政府は介入すべきだという議論にもなっていくのですね。
柿埜 功利主義は、両義的な面があります。一つはすごく自由主義的な発想につながっているのですけれども、もう一方では自由主義を、実は内部からむしろ掘り崩してくる部分もあって、功利主義者が「大きな政府派」になったりする場合もあるのです。
―― 確かにそうですね。ですから、先ほど、自然権が神学的な議論であるという話がありましたが、確かに自然権というものは、日本人にはなかなか分かりづらい議論ですね。神さまが前提となる自然権ということになってくるので、それに比べると、この功利主義は、日本人にもやや理解しやすいところではあります。しかし、その両義性、いわゆる「放っておいてくれ」という自由ではなく、「個人のあるべき姿を実現するために介入する」という自由にも結びついてくると。
柿埜 そうなりかねない部分は、もともとあったわけですね。ただ、ベンサムやミルの段階では、そういう側面は非常に抑制されていました。
―― はい。
●ミルが説いた『自由論』…「他者危害原則」や「多数者の専制」
―― そうしますと、次にミルの『自由論』に入っていきます。ここにお書きいただいているように、個人の自由と多様性に満ちた社会を擁護した自由主義の古典であるということです。ここで先生がお書きになっているのが、「他者危害原則」です。この他者危害原則とはどういうものですか。
柿埜 これは「他人を侵害しないかぎりは自由だ」といわれます。
―― 他人を侵害しないかぎり自由ということは、要は相手を侵害しなければ自分は自由でいてもいいということですか。
柿埜 そうですね。「自分の人生をどういうふうに生きるか」「どういうことが自分にとって幸福か」ということは、その人が基本的には一番よく分かっているはずです。それを他人が「ああだ、こうだ」と言い、「こうすれば君は素晴らしい人生を送れる」などと勝手に決める筋合いはない。自分...