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天安門事件や南米の独裁者への評価分析も間違いばかり?

クライン『ショック・ドクトリン』の真実(3)天安門事件と独裁者とクラインの矛盾

柿埜真吾
経済学者/思想史家
情報・テキスト
ミルトン・フリードマンの「ショック療法」の議論を曲解し、的外れな批判を展開するナオミ・クライン。その議論は、中国の歴史的事件である天安門事件へと波及する。民主化を支持していたフリードマンを保守派として批判したクライン。その主張の矛盾は、ベネズエラ、ニカラグア、エクアドルなど南米の独裁者に対しても同様。今回はそれぞれの具体的な矛盾について解説を進めていく。(全4話中第3話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:13:39
収録日:2023/07/20
追加日:2023/09/08
≪全文≫

●天安門事件にまつわるクラインのデマ


―― ちょうど前回までに、先生からご紹介いただいた話は南米の話が多かったので、日本人にはややなじみが薄いかもしれませんが、日本人がよく知っている例でいうと、中国の天安門事件もフリードマンの陰謀だというようなことが書いてあるということなのですね。

柿埜 ええ、もうクラインのでたらめというのは、南米に関しても本当にひどいものです。はっきりいって、陰謀本の類に書いてある「CIAの陰謀」というものを、全部、真に受けた内容なので、到底まともな本とはいえないのですけれども、中国に関してのクラインのでっち上げは本当に信じられないものです。はっきりいえば、被害者と加害者をさかさまにしているのです。

 クラインによれば、天安門の学生デモというのは市場経済に反対する人たちのデモで、シカゴ学派に反対するデモだったというような書き方をしています。天安門事件は鄧小平が市場経済化を進めるために起こしたショックで、市場経済が一気に進んだと。それで、フリードマンが天安門事件の前年の1988年に中国を訪問して、チリと同じアドバイスをし、それが天安門事件の武力弾圧につながったのだというのです。鄧小平が自由をはく奪してフリードマン主義を貫こうとした結果が、天安門事件なのだというわけです。

 これは現実とまったくかけ離れた、完全なフィクションです。

 現実の天安門事件はまったく逆で、実は経済改革を一生懸命進めていたのは、胡耀邦(こようほう)という人と趙紫陽(ちょうしよう)という、どちらも中国の総書記を務めた政治家です。彼らが進めようとしている政策に、「経済自由化に関しては同調する」というのが鄧小平の姿勢だったのです。しかし(鄧小平は)、政治の自由化、つまり民主化に関しては否定的だったわけです。

 胡耀邦が経済改革と政治改革を進めようとしたことに対して、共産党の中には保守派がいて、ものすごく反発していました。結局、胡耀邦が急進的すぎるということに鄧小平も同調。「胡耀邦はブルジョア自由化の手先である」というようにいわれて失脚してしまうわけです。

 胡耀邦が失脚した後、経済改革も政治の民主化もどちらも止まってしまいました。皆さんはクラインの本からではなくて、普通に常識として知っておられるかもしれないのですが、胡耀邦が亡くなった時に、胡耀邦のことを慕っていた学生たちが追悼のために天安門広場に集まったというのが天安門事件の始まりでした。

 例えば、1989年4月24日の学生デモのスローガンには、「経済の自由化、政治の民主化」というスローガンがあったぐらいです。学生たちの願いというのは経済の自由化、要するに共産主義ではなく資本主義にして、そして政治も民主化するということが彼らの願いだったわけです。

 学生たちの武力弾圧を強硬に主張したのは李鵬首相(当時)で、彼は経済改革反対派です。天安門事件で、学生たちの武力弾圧に最後まで反対したのは趙紫陽でした。趙紫陽は胡耀邦の盟友だった人物です。

 フリードマンが1988年に中国を訪問したのは、他ならぬこの趙紫陽の招きによるものでした。趙紫陽は経済改革と民主化を進めたいと思っていて、当時、深刻な状態になりつつあったインフレを鎮圧するためにはどうしたらいいか、というアドバイスをフリードマンに求めたのです。そこでフリードマンは、インフレの鎮圧のための技術的で専門的なアドバイスを趙紫陽にしたわけです。

 趙紫陽は学生たちの弾圧に徹底的に反対して、最後は自ら学生たちのもとに行って、「これから武力弾圧が始まるから早く逃げてくれ」と説得したという、本当に立派な人です。だから、共産党内の民主派の指導者でしたが、それがたたって、天安門事件の後、生涯亡くなるまで幽閉されることになりました。

 実際に共産党は、「趙紫陽は天安門の学生たちと図って、共産党の体制を転覆しようとしたのだ」ということを主張して、趙紫陽を幽閉する根拠にしたのです。彼らがそうした時に、北京の市長だった陳奇同という人が報告書を書いて、「趙紫陽は中国共産党に対して内外のブルジョア自由主義者と共謀して陰謀を企んでいたのだ」というのです。その陳奇同が書いた報告書の中で(これは『人民日報』にも掲載されたものですが)、「昨年(1988年)、9月19日に(趙紫陽が)米国の『新自由主義の経済学者』と会見した」というのが、ほかならぬ陰謀の証拠であるとされました。もちろんこの「新自由主義の経済学者」はフリードマンです。だから、フリードマンと会見したことが趙紫陽の罪だというわけです。

 フリードマンは天安門事件をすぐ非難しましたし、趙紫陽の勇気をたたえていましたので、中国の民主...
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