●藤沢周平的な世界は「来たるべきもの」として読むことは可能
―― 資本主義というのは、守護者が必要なのではないかと、私は思っています。渋沢栄一はまさにそれに当たる人物だったのではないかと思うのです。渋沢と言えば『論語と算盤』ですし、先生のお話を聞くと石田梅岩を彷彿させるお話もありました。また、日本には当然、二宮尊徳もいます。その中にマックス・ウェーバーなどの宗教に対するお話が混ざってきたわけで、先生のお話からはそうした広い意味での宗教から未来を語ることができると示唆されているように感じました。そうすると、少し話が外れるのですが、最後の結論のところで「藤沢周平はやはり、いいな」と思うのです。
中島 (笑)なるほど、なるほど。
―― 最後のところで先生は「禮」や「軆」の部分を強調されていますが、そうであれば、まさに藤沢周平の描いた『蝉しぐれ』などは最高で、そういう生き方を目指したいと感じた次第なのですが、いかがでしょうか。
中島 おそらく福澤が考えていたのは、そういうことだろうと思います。彼は啓蒙の思想家ですから、当然のこととして明治以前の時代をどこかで否定しないといけない役割があったわけです。それはもちろん、自覚的にやったはずです。しかし同時に、今日引用したところにもあったように、武士の持っていた宗教に対するある種の不思議な態度(淡泊のみならずほとんど無味)が、実は来るべき未来への態度なのではないかという勘を持っていたわけです。
ですから、藤沢周平的な世界は、もちろん一種の作り込まれた世界ではありますが、今おっしゃったように「来るべきもの」として読むことは、十分可能だと思います。
●アインシュタインとベラーの共通項はあるのか?
―― 今日のロバート・ベラーの話について、戦前、アインシュタインも同じようなことを言っていたような記憶があります。西洋人の見方は、例えば明治初期の日本にやってきたイギリス人がずっと馬に乗って日本中を回ったような紀行(イザベラ・バードの『日本紀行』)がありまして、それと似たような感じを受けましたが、どうなのでしょうか。
中島 アインシュタインについては、2008年にノーベル賞をお取りになった南部陽一郎先生が翻訳されたものがあります。その中で、実は宗教と道徳と科学について論じたものがあるのです。
そこで彼は、ベラーなどと同じように「宗教の力をもう一度使い直して、科学をコントロールしていかなければならない」という議論をしています。科学と資本主義の違いはありますが、宗教が20世紀を通じて非常に大きなテーマだったことは確かだと思うのです。
日本でも、例えば西田幾多郎はずっと宗教の問題を考え続けました。『善の研究』以来の彼の本は、実は、最後まで宗教について論じたものです。宗教を使って、どうやって科学というものに対抗すればいいのかが彼の発想でしたから、ある意味でこのテーマは世界的に共有されていたことなのかという気がします。
●無宗教だと答える人たちの意識について
―― 最近若い人をはじめ、そこそこの年齢の方とお話していても、「俺は無宗教だ」とか、「無神論者だ」とか、もしくは、実家のお墓のお話をすると、「あまり関係がない」などといったようなことを、以前にも増してよく耳にします。
ところが先生は、人間にとって宗教は、洋の東西を問わず必要なものではないかと問いかけておられる。私自身は、宗教観を持たないのは船でいえばヨットのセンターボードがないのと同じで、ふらふらしたり、何かにつまづいて転覆しかねないような気がしています。先生ご自身はどのようにお考えになっているのか、差し障りのない範囲でお聞かせください。
中島 無宗教というのは、日本で統計を取ってもそうなりますし、中国もそうです。皆、無宗教だと言います。ところが、実際の行動を観察していくと、例えばお正月には神社に行ったり、墓参りもしたりするわけで、外から見ると宗教的行為をしています。
ところが、本人の意識とのギャップが大変大きくて、「自分がやっていることは、そんな大した宗教行為ではない」「自分は無宗教だ」と言います。
このような意識は、非常に近代的なものです。つまり、「宗教はとても純粋化されたものでなければいけない」という強迫観念が植え込まれていて、それに対して、「自分たちがやっていることはふさわしくない」と考えるわけです。ですから、本当は無宗教とは言えないのに、無宗教だと言わされているような規制らしきものが、ずっと続いているのだろうと思います。
●つくられた「無宗教感」からローカルなスピリチュアリティへ
中島 しかし、人間にとっては、どう考えてもこの世のことだけでは説明できないもの、あるいは、納得できないものがたくさんあ...