ラフカディオ・ハーンは、祖先祭祀的な日本の倫理にどのような可能性を見出していたのだろうか。ハーンの視線の先には、近代そして資本主義に対する鋭い洞察があった。ハーンは、「自由」が必要不可欠の大切なものだと考えていたし、また、自由がない国は資本主義の国際的な競争で勝てないとも考えていた。だが、だからといって自由が放縦なもので良いはずがないし、弱者を抑圧したり、正直な人間を餌食にしたりする自由であってはならないと強く思っていた。では、どうするか。ここでハーンは、「叡智によって制約された自由」の必要性を説く。そして、その「叡智」の可能性として、日本の伝統や、その倫理のあり方を見据えるのである。ハーンが考えていたこととは? そしてそれと対比したときに、現在の日本の課題とは?(全8話中第7話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●近代化を果たした日本が直面する壁とは?
―― では続きまして、祖先祭祀的な日本の倫理の未来性とは、というところでございます。またハーンさんの文章を読んでまいりたいと思います。「近代化を果たした日本が直面する壁とは」というところで、これは先の講義で指摘のあった、日本のその自由のなさのようなものが、今後どうなるのだろうか、というところを指摘した箇所となります。
《もしも日本の将来が、その陸海軍に、国民の高度の勇猛心、さらに名誉と義務の理想のためには何十万でもわれ死なんという覚悟などに依存できるものならば、現在の事態などに驚きあわてなければならぬ理由はあまりあるまい。ところが不幸にもこの国の将来は、勇気などとは異質のもの、つまり自己犠牲などとはちがった別の能力に頼らなければならないのである。
そして今後のこの国の闘争は、その社会的伝統がこの国を著しく不利な境地に陥れる苦闘となるにちがいないのである。産業競争に対する能力なども、婦人や子供のみじめな労働力に依存してなされるようなものではあり得ない。どうあっても個人の知的な自由に頼らざるを得ない。そしてこの自由を抑圧したり、その抑圧を放置してかまわないような社会は、相も変わらず頑迷固陋であって、個人の自由を厳重に維持している社会との競争に対応することはとてもできまい》(『神国日本』385~386頁)
《日本が集団によって考えかつ行動をしている間は、その限りでは、たといその集団が産業会社の場合であっても、日本はその間はいつも全力を発揮しかねる状態をつづけてゆくに相違ない。(中略)
この「重荷」は、過去何代かに亙っての死者の亡霊が、日本の生命上に加える目には見えない重圧なのである》(『神国日本』386頁)
―― ということで、少し長めの文章でございましたけれども、ここでもまたその日本社会が抱えているもの、背負っているものが「自由」ではないので、産業社会、経済社会では勝ち抜けないのではないかという懸念が、率直に描かれていますね。
頼住 そうですね、はい。
―― このあたりの部分というのはハーンさんの視点だと思いますが、そうは言いながらも、では日本人の倫理を捨てるべきかどうか、というところで次のように指摘していくわけでご...