●皮鉄の裏表と「柾目」にならない延ばし方
松田 皮鉄はどちらを表に出すか、印を付けておかないと、甲伏せになったときに中に入ってしまって厄介です。鍛錬している最中に、「傷っぽい」方を表にしようとあらかじめ決めておきます。傷っぽかったり、ふくれそうだと思う側を表に出しておくと、後で切り取ってしまうことができます。
表側に出た不都合は操作できますが、逆に中に入ってしまうと、心鉄とくっ付いて、どうしようもなくなります。刀になったときに心鉄と皮鉄が剥がれて、おたふくのようにボコッと出るのは、そうした場合です。小さなフクレなら途中で取れるので、なるべく傷っぽい箇所が外側に出るように、鍛えの間も甲伏せの準備でも気配りをします。
「向き」が非常に大事なのです。今は正方形なのであまり目に付きませんが、少し広がっていくと、すぐに分かります。
鍛えのときに心掛けて操作するのは、「柾(マサ)」にならない延ばし方です。木の柾目は重宝がられますが、刀の場合は違います。「柾鍛え」というのもありますが、ごく限られています。ほとんどは「板目」や「杢目」です。
鎌倉期までの古刀には流れたところがありません。江戸時代もなるべく延びないように操作していますが、鎬(シノギ)の地だけがどうしても柾になっています。そうすると、いくら内容が古く見えても「これは新刀だな」と露見します。そこが分からないように、新刀では「樋(ヒ)」という溝を彫っています。
●心鉄の役割と甲伏せのさまざまな技法
松田 「甲伏せ」についてですが、一度皮鉄をまくってみて、懐具合がだいたい分かってから、心鉄の量に調整をかけます。心鉄は昨日のうちに鍛えてありますが、普通は約2本分用意します。心鉄が少ないと刀の目方が出なくて困りますので、少し多めに準備します。多い分にはいくらでも調節がききますが、足りないとどうにもなりません。
心鉄の役割は、刀の重量を調節する意味とともに、「折れ」を防ぐこともよく指摘されています。おそらく新刀になってからはそれもあったかもしれません。
ただ、鎌倉時代の古刀を裁断してみると、どこが心鉄でどこが皮鉄なのか、境目が分かりません。明らかに心鉄が入るのは、江戸時代に入ってからです。江戸期後半になると、「四方詰」や「本三枚」の技法が出てきます。それぞれ皮鉄と心鉄と棟鉄につくり分け、組み合わせて延ばしていくので、技術的には相当大変です。腕のある人は本三枚鍛えを行うのですが、源清麿(江戸時代後期に活躍した刀工)が有名です。
私の場合は甲伏せでただ心鉄を入れるだけなので、そう聞いただけで「君もまだまだだね」と評価する人もいます。現代刀匠の基準は技術の優劣だからです。それから、こうした撮影などでビジュアル的に「すごい」と思われるのがいい仕事だとされます。でも、実際には全く相反します。火花をそんなに出す瞬間があってはならないのです。
●「炭切り3年、向槌8年」と言われる理由
松田 今の撮影は、だいたい「向槌」で映しますが、よく見るとその脇にちゃんとハンマーがあったりします。「なんだ、あれは?」と戸惑いますが、普段はやはりハンマーで叩いているので、「向槌」は完全に撮影用です。
向槌の工程を見ていると、「これで一本の刀を仕上げるのは無理ではないか」と感じることが多いのです。二人で行う場合は、相当熟練した向槌でなければ無理でしょう。三人いてなんとかハンマーのレベルまでいけると思います。この場合の問題は、向槌の弟子を使う親方の方が慣れていないと、指示ができないことです。三丁のハンマーを同時に操作するようなものですから、ただ叩いているのを押さえているだけということになりかねません。
「炭切り3年、向槌8年」と言われるぐらいで、向槌として習熟するにも時間がかかります。思うように当てるのに5年はかかるでしょう。また、当たるだけなら誰でも当たりますが、調節するのは実際に刀をつくっている人間でないとできません。刀づくりが未経験で、親方の横に座る「横座」の指示に従ってやる場合は、やはり8年はかかってしまうでしょう。
昔の職人の場合、刀鍛冶を目指すほとんどの人が向槌の段階で終わってしまいました。「刀鍛冶のところで修行しています」と言っても、向槌までならば、ハンマー代わりというだけです。
●平井千葉の研いだ刀は、後世の人間には歯が立たない
松田 古刀研究の権威といわれた本間順治氏の昭和30年代の著作に、刀鍛冶や研ぎ師などの刀職に聞いた話を集めたものがあります。先生は主に研ぎ師に話を聞いて、古い刀の欠点を歴代の研ぎ師が「どう繕ったか」を明らかにしました。鑑定家らしい興味の持ち方だと思います。
例えば、平井千葉(人間国宝・本阿彌日洲氏の父)が研いだ刀は、絶対に後世...