●余人をもって代えがたいといわしめなければ、経営ではない
最後に、仕事論についてお話しして終わりたいと思います。私は、趣味は100パーセント自分のためのもの、仕事は自分以外の誰かのためのものだと考えています。趣味は自分が楽しければそれで良いのです。ところが仕事は、自分以外の誰かのためになって初めて仕事になります。趣味と仕事は明確に違うものなのです。
私の趣味は音楽です。昔は仕事で音楽をやっていましたが、今でもライブハウスで、ロックバンドでライブをしています。しかし誰も来てくれません。もちろん価値がないからです。趣味だから価値がないのです。自分が気持ち良くなるためにやっていることです。ただし、たちが悪いのは、人が来てくれた方が気持ちが良いということです。だから、ぜひ来てくださいとお願いしていますが、誰も来てくれません。
好き嫌いは趣味であれば構わないが、仕事では好き嫌いなんて言ってはいられないという方がよくいらっしゃいます。仕事で大事なのはむしろ良しあしだと言われるのですが、私は仕事こそ好き嫌いだと考えています。こういう話をすると、癒し系の話かと誤解されます。ナンバーワンよりオンリーワンとかいった、相田みつをのような話ではないかと思われるわけです。相田みつをも頑張らなくてもいいから、具体的に動けと言っていたらしく、結構厳しい人だったようですが。
私はこれまで五十数年生きてきて、世の中はそんなに甘くないということをよく分かっています。スキルであれこれできると言っているうちは、まだまだ素人です。経営の世界には非常にたくさんの人がいます。余人をもって代えがたいといわしめなければ、経営ではないと思うのです。ここがスキルとセンスの違いでしょう。
●センスのメカニズムを動かしているのは努力の娯楽化だ
私は努力というものに対して懐疑的で、努力してうまくいったことはあまりありません。努力が必要だと思った時点で終わっているのではないか、向いていないのではないかと考えてきました。その分野についてセンスがないのではないかと思ってしまうのです。私の原則は無努力主義です。
自分の中にある動因で好きなことがあれば、本人は努力だとは思わないということです。はたから見ると非常な努力をしているように見えても、本人はそれをほぼ娯楽のように思っているでしょう。こうなれば努力も継続するわけです。継続は力なりです。結局、センスが余人をもって代えがたいという程にまで一つのことが上手になり、それが成果を出すのですから、ますます好きになっていきます。
つまり、先ほどのインセンティブから始まるスキルの好循環との違いは、一言で言えば、「好きこそものの上手なれ」ということです。センスはこうしたメカニズムを持っていて、このメカニズムを動かしているのは努力の娯楽化です。頑張るのではなく、凝ると言った方がいいでしょう。皆さんも体験として理解していただけると思いますが、好きなことは頑張っているのではなくて、勝手に凝っているという感じになるはずです。これが一番良いのではないかと考えています。
●ブラック・ホワイトという分類には意味がない
例えば、昨今の働き方改革についても、私は極めて疑問に思っています。私が大嫌いなのはブラック・ホワイトという分類です。電通でも問題になりました。もしそれが社会のルールに抵触する犯罪であれば、単純に犯罪として処置すればいいわけです。しかし、「厳しい」とか「きつい」、「ブラック」といったふわふわした話はあまり意味がありません。全部気のせいです。
電通はあのような問題が起きた以上、明らかにおかしいところがあったのでしょう。しかし、問題が起きるとメディアが一斉にたたくわけです。私は文春オンラインに以前、「棚上げフェスティバル」について一度文章を書いたことがあります。要するに、文春は、電通はけしからんブラック企業だと言っているが、自分たちも他人の不倫を記事にする裏では、何人もの人が徹夜しているではないか、と。結局、これは棚上げフェスティバルなのです。
厚生労働省に文句を言いに行ったこともあります。とにかく霞が関の厚生労働省の官僚の労働時間の実態を出してくれ、と。彼らが報告している労働時間が、実際の労働時間と違うのは公然の秘密です。私はそれを批判してはいません。文春の記者や厚生労働省の官僚が遅くまで働いていることを批判しているのではないのです。それはそういう仕事だからです。とても大切な仕事だと思います。官僚がある局面でがんがん残業しなければいけないのは、国のために尊いことでしょう。官僚に...