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トラヤヌスのダキア併合…今に残るローマとルーマニアの縁

五賢帝時代~ローマ史講座Ⅷ(3)トラヤヌスの功績~ダキアの併合~

本村凌二
東京大学名誉教授/文学博士
情報・テキスト
トラヤヌス
ネルウァに後継者として指名されたトラヤヌスは軍功を挙げた皇帝であったが、代表的なのがダキアの併合である。東京大学名誉教授の本村凌二氏が、ローマの属州となったダキアが今日のルーマニアのアイデンティティにいかなる影響を及ぼしたか解説する。(全9話中第3話)
時間:15:27
収録日:2018/02/08
追加日:2018/05/14
カテゴリー:
≪全文≫

●重々しくも優しい軍人皇帝トラヤヌスの登場


 ネルウァが後継者を選ぶとき、ふさわしかったのは元老院貴族と軍隊にも好感を持って迎えられる人物です。トラヤヌスという人は、彫像を見れば非常に長身で、いわば非常に重々しいところも持っているけれども、しかし非常に人々に対して慈愛の念というか、優しいところもありました。しかも彼は軍人として非常に功績を挙げた人です。ローマ人の場合、行政官と軍人の境ははっきりしないのですが、トラヤヌスは基本的には行政官というよりも軍人だったといっていいと思います。 

 スペイン南部のアンダルシア地方に、セビリアというところがあり、そこからバスで約30分のところにイタリカという町があります。もともと彼はここの出身者でした。トラヤヌスの家系をたどっていけば、ローマの古い貴族に行き着くのですが、少なくともトラヤヌスが生まれた頃は、家族でイタリカに来ていて、そこでトラヤヌスが生まれました。

 それまでのローマの皇帝は全員、ローマあるいはイタリアの出身者だったのですが、トラヤヌスが初めて属州出身の皇帝として登場してきたということになります。


●トラヤヌスの軍人としての功績と、節度ある行動


 トラヤヌスは、軍人としての業績があり、節度のある行動を取る人でした。ただ彼が批判されたのは大酒飲みだったことと、これは古代人にありがちですが同性愛的な傾向があったことです。とはいえトラヤヌスの場合、それが顕著だったというわけではありません。例えば、大酒飲みといっても、酒乱のような大酒飲みではなく、陽気になるところがあり、同性愛といっても、若い男性を精神的に傷つけることはなかったので、周囲もほどほどに見ていたのです。

 いずれにしても、そのようなところがありますが、彼は全体としてみれば、軍人として優れ、さまざまな状況において節度のある態度で臨んだため、元老院や軍隊、あるいは民衆との間において、非常にいい関係を築いたといえるでしょう。


●ドミティアヌス時代から続くダキアとの紛争


 ただし、トラヤヌスは軍人でしたから、軍事的功績を挙げたいという意欲はそれ以前の皇帝よりもあったと思われます。ローマは帝国として巨大なものになったのだから、もうこれ以上拡大してはならないというお達しがアウグストゥスの時代からあり、実際ティベリウスは領土を拡大していません。一方、カリグラの後のクラウディウスは、今のイギリスであるブリタニアを併合し、ローマ国家の中に編入して拡大しました。

 国境というと、今のような明確な概念はないのですが、ローマ帝国の国境線は自然のものを利用する形で、北はライン川、東はドナウ川を境にしていました。そして、その南側はローマ側で文明国、北側は野蛮な国という位置付けでした。

 ドミティアヌスの時代にドナウ川の北側にダキアというところがあり、川上を境にしてお互いの勢力範囲を決めていました。例えば何らかの形で生産力が落ちたりすると、いい条件のところから略奪、ないしは物を安く購入するといったことを考えがちになるため、ダキアの人々もドミティアヌスの時代、何度かローマとある種の取り決めをしていました。ところが、当時、何回かにわたってローマ領に侵入してきたことがありました。それはおそらく自分たちが生活に困り、逼迫した状況になったからだと思われますが、侵入してきたため、それを跳ね返すということになります。


●軍人トラヤヌス、ダキア平定に乗り出す


 そうした形でダキアの人々と小競り合いを繰り返す中、ネルウァからトラヤヌスの時代になりました。

 トラヤヌスは軍人ですから、この芽を摘み取っておかなければいけません。彼は危険なダキアを平定するため、自らこの地域に入り込み、2~3回戦争を繰り返しました。その後、ダキアはローマに併合され、反抗の姿勢を示しませんでした。これはトラヤヌスが大変な努力をして遠征したためで、その時、川に幅18メートルもある橋を造った、といわれています。どの程度の橋だったかはともかく、ローマ軍が向こう側に行くのにも利用したので、ローマ側からすれば侵攻していったということになります。

 こうして大きな勝利を収めるのですが、出発から戦利品を取って帰ってくるところまでの詳細な戦争の様子が、ローマにある「トラヤヌスの円柱」という、非常に背が高い円柱に、図柄として描かれています。


●「トラヤヌスの円柱」のレプリカにみるイタリア人の教育熱心さ


 今はフォロ・ロマーノの中に本物があるのですが、円柱ですから、図柄そのものを遠くから望遠鏡で見てもなかなか分かりません。ただ、イタリア人は教育熱心なことに、ローマから地下鉄で30分ぐらいのエウルという町にローマ文明博物館があり、トラヤヌスの円柱の表面にあるレリーフを全部かたど...
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