●易きに流されていく人にやりたいことなど見つからない
―― 小説を読んで泣くというような感情は、人間の遺伝子に組み込まれているものなのでしょうか?
真山 確かに人間は悲しみという感情を持っており、さまざまな表現によって反応することができます。この部分は、動物の中で人間が優れているところだと思います。きっとDNAとしてあるのでしょう。さらに、こうした感情に理解や理性、シチュエーションというものがつながり、それが個性になっていきます。「私はここは泣かないけど、ここは泣くんだ」というような個性のことです。今の日本人はほとんどの人が同じところでしか泣きません。それは、動物に戻ってきているともいえるでしょう。
人間は、個々人の持つオリジナルな感情や性質を、それこそ70年、80年と生きる間に身に付けていくはずなのに、現代のように消費社会の中でただずっと流されて生きていると、奥行きがなくなり、平面になっていきます。
―― 正しいことは1つだと受験勉強で教えられていると、世の中が分からなくなっていくのですね。
真山 だからそこも割り切っていくしかないと思います。「これはテストの正解を書くのであって、社会の正解ではない」と思えるように育けなければいけないでしょう。現状はそうではなく、「とにかく知識を詰め込んだら次のステップに上がれる」とか、「東大に行ったらきっと幸せになれる」と思っています。
東大生にアルバイトとして手伝ってもらっていますが、時々「東大に行ったのに幸せになれないのはどうしてですか」と聞かれます。「あなたにとっての幸せは何ですか」と聞くと「楽に生きること」と答えたりします。「それなら、そもそも大学の選択、間違っていますよ」という話になります。
「楽に生きる」「幸せに生きる」というとき、その幸せは非常に一次欲求的な幸せです。一方、自分にしかできないことを見つけて、そのことによって誰かに「ありがとう」と言われることをやりたいのなら、東大に行く意味があるかもしれません。結局は、勉強ができて周りが「東大に行きなさい」と言うから東大に行った人と、「自分のやりたいことは東大に行かないと手に入らないんだ」と思って東大に行った人の違いは、そこにあると思います。
やりたいことを探すのはなかなか難しいことで、50歳になっても自分探しをしている人はたくさんいます。それでも、自問自答することをやめない限り、いつか見つかるはずです。しかし、多くの人は「今日楽しいし、まあ、いいか」というところに流されていってしまいます。そうやって、易きに流されていく人に、やりたいことなど見つかるわけがないのです。
●チャンスとは準備をしている人だけが掴めるものである
―― 自問自答をし続ける人はどんな人なのでしょうか?
真山 よく言いますよね、「チャンスの神様は前にしか髪の毛がない」と。向こうからチャンスの神様が走ってきて、「来た」と思った瞬間に手を伸ばさないと、あっという間に神様は後ろにいて、後ろ髪がなくてつかめずに終わる。何でそうなるかというと、準備をしていないからです。つまり、(自問自答をし続ける人は)チャンスの神様がいつ来てもよいように、いつも準備万端でスタンバイしているのです。
自分にとってやりたいものが分からなくても、せめて、何か「これだ」と思った瞬間に、躊躇なく手を伸ばすことができる。これをチャンスと呼ぶのですが、「ああ、これがそうかもしれない。では、取ろう」と重い腰を上げているようではなかなかうまくいきません。そういうことが日本人には多いのです。
それは、そもそもチャンスに出会ったときの心構えを誰も教えないからでしょう。あるいは、「なぜあの人はいつもチャンスをものにしているのに、自分は駄目なのか」という成功者と自分の比較をしなくなったからかもしれません。
比較をしなくなったのは、世の中に人と比べることは良くないことだとする風潮が広がり、子どもたちにそう教え始めたからでしょう。ちなみに、オンリーワンという言葉がありますが、オンリーワンになるための難しさは競争に勝ち抜いた人間だけが知っていると思います。だから、「競争で1番にならなくてもいい」というのは嘘でしょう。生きていく以上、誰もが競争しているからです。
激しく戦う人だけでなく、ひたすら植物のように静かだけれども競争をしている人もいます。それは、静かに生きるということを続けられるかどうかも競争だからです。極端なことを言うようですが、競争心がないということは、生き物的にはまさに「いつ死んでもいいですよ」という意思表示でもあると思います。
昆虫学者や分子生物学者の人たちに面白い話を聞きました。彼らは生き物がどうやって生き残っていくか、あるいは人の体の中にある細胞がどうい...