●二つの史料に見る天正九年の鳥取城攻撃
天正九(1581)年になると、織田信長は明らかに毛利氏との戦いを意識して動くようになります。〔史料5〕を見てみましょう。鳥取城攻撃に関わりますが、かなり最終段階に近づいた頃、羽柴秀吉が宇喜多氏に対して出した手紙です。
「鳥取之城押詰取巻候」というように、自ら鳥取城を厳しく攻めていることを宇喜多氏に伝えています。このように、秀吉は一貫して宇喜多氏と組んで、毛利方と戦う方向で邁進していました。この動きは、ついに信長も採用することになります。
信長の一代記としてよく引用される『信長公記』の中から、天正九年の状況を示す部分を〔史料6〕に抜粋しておきました。傍線部分を解説しましょう。
「因幡国とつとり表に至りて、芸州より、毛利・吉川・小早川、後巻として、罷り出づべきの風説これあり」
ついに、鳥取城に向けて毛利氏の本隊が攻めていくという風聞があったということです。これに対して、信長はどのように判断をしたのかが、次の傍線部分です。
「信長公御馬を出だされ、東国・西国の人数、膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるぺきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」
信長自身もこの戦争によって統一をきっちり終えていきたいということで、自らが出馬する意思を打ち出しています。信長と西国の雄である毛利氏の直接対決という方向がついに示されたのに対して、信長も並々ならぬ意気込みで向かっていくことがうかがわれる記述です。
天正九年の鳥取城攻撃はすでに第二次に当たりますが、局地戦を脱し、大将同士の戦争になってくる。いわゆる決戦と位置付けられるような大きな段階に移っていったことが分かります。
●羽柴秀吉の本陣ではなかった「太閤ケ平」の用途
今も鳥取城の周辺には、付城、陣城が非常によく残っています。中でも「太閤ケ平(たいこうがなる)」という大規模で突出した陣城が、現在もよく残っていて、研究も進んでいます。
ここは、従来いわれているような羽柴秀吉たちの本陣ではなく、先ほど文献にあったように総大将である織田信長が親征してきた時の本陣としてつくられていたのではないかという研究があります。私自身もそうだと思います。実現はしませんでしたけれども、毛利氏が実質的に攻めてきたならば、信長もここで応戦するということで、天下の趨勢を決める大きな合戦が、ここで行われる予定だったのではないかと見ています。
天正九年十一月までに、非常に厳しい戦争であった第一次・第二次の鳥取城攻撃は終わります。毛利氏の本隊は、結局は来ませんでした。来られなかったという方が正しいと思います。信長も、鳥取城攻撃に向けて安土から軍用道路を整備したり、途中で立ち寄るための城郭に近い施設を街道に配置したりしています。実質的な戦争に向けての動きが取られていたことは、古文書や現地の城郭遺構からもうかがえるわけです。
●鳥取城攻めから淡路平定、織田信長の勢力圏は西へ伸長
しかし、ここでは決戦を迎えませんでした。そして、鳥取城が落城すると間髪を入れずに織田信長は、今度は瀬戸内海側、具体的には淡路島の平定を、羽柴秀吉を中心とした家臣に命じます。天正九年十一月には、秀吉を中心とする勢力が淡路島を一挙に占拠し、統一していくことになります。その勢力は淡路島にとどまらず、実質的には四国の徳島(阿波)の北部、それから讃岐の東部まで及んだと思われます。
具体的には〔史料7〕をご覧ください。これは信長の側近だった松井友閑が、安富筑後守に対して出した手紙です。安富氏は讃岐の東半分に影響力を持った実力者です。どういうことを伝えたのかというのが、傍線部分です。
「今度淡州之儀、皆相済申候」、このたび淡路島の統一は終わりました。「於様子者不可有其隠候」、間違いなく統一は終わりました。「就其阿・讃之儀、三好山城守弥被仰付候」、今後どうしていくのかというと、阿波や讃岐についても織田方で平定をしていく。具体的には三好山城守(三好康長)に任せた、と書かれています。信長が、淡路からさらに四国を目指して軍隊を進めていくという動きについて、地元の勢力に対して伝えたものです。
ここで、当時の信長の勢力範囲についてまとめておきたいと思います。この地域、つまり中国地方を任されていたのは秀吉です。宇喜多氏と連携して但馬から因幡へ向けて北上する動きを示し、鳥取城を落城させたので、因幡、但馬、備前に最前線が置かれます。それから淡路島、讃岐の東部、さらに阿波の北部までが、天正九年の終わりころにおける、信長の西の境界...