●好対照のパートナーと事業をスタートする
大学を卒業してから少し休養期間を置いたので、仕事に就いたのは2年ほどたってからです。誰とやろうかと考えていたところ、十日町高等学校の友人で、成城大学を卒業したばかりの山本(幸男)が、まだ就職を決めずにいました。そこで、私が技術屋、山本が得意の営業を担当する形で、一緒に仕事をするかと話がまとまりました。
十日町は機(はた)の産地で、彼は繊維問屋の子息でしたが、私とは性格が正反対でした。私は結構せっかちですが、山本はのんびりしているのです。商売のやり方も、私はフローで回転の速いやり方がいい、山本はゆっくりストックのたまる仕事がいい。彼は酒が飲めて、歌がうまくて、ゴルフが上手。私はそれらが全部苦手。私が「痩せた女の子がいい」というと、彼は「ぽっちゃり太った女の子がいい」というぐらい、何もかも正反対で対照的でした。
そこまで違う人間と一緒に経営をしていると、何か発言するときも常に「こう言ったら、山本はどう思うだろう」と、気がかりになってきます。彼の方もきっと「自分の考え通りのことを言うと、三澤はどう考えるかな」と思っていたでしょう。それが、会社をバランスよく回した原因の一つだったと思います。井深大氏と森田昭夫氏のような、本田宗一郎氏と藤沢武夫氏のような、そんな関係の二人で事業を始めたわけです。
●「無法建築」が打って変わって「38条認定」へ
創業後しばらくは、トヨタのクラウン1台に5人乗れば社員旅行ができるような少人数で仕事を続けていました。ところが50棟ぐらい建てたころ、青い顔をして帰ってきた山本が、「建築届というのが要るそうだ」と言うのです。「われわれは建築届を出さずに、無法建築をしているらしいよ」という話なので、それはなんだ、と驚きました。聞けば、建築基準法というものがあり、法律に従ったものでなければ、建ててはいけないというのです。
驚いて建設省へ行くと、「それは、そうだよ」という話になり、「どうすればいいでしょう」と尋ねると、「大学でつくった計算書を持って来れば、見てあげるよ」と言われました。建設省の指導課にいて時間を持て余していた係長が人柄のいい人で、「俺が見てあげるよ」と言ってくれたのです。
日大では、就職できなかった私のことを先生が心配して、計算をしてくれました。その書類を持っていくと、「...