●キャンプ・デービッド合意からインティファーダへ
中東における紛争の繰り返しに頭を痛めていたエジプトのアンワル=サダト大統領が、1977年に突然エルサレムを訪問しました。彼はイスラエルの国会で歴史的演説を行い、非常に高く評価されます。当時アメリカではジミー・カーターが大統領を務めていましたが、カーター政権はエジプトとイスラエルの代表をキャンプ・デービッドに呼び、12日間の交渉を行います。この結果、中東和平に向けたキャンプ・デービッド合意が成立します。
キャンプ・デービッド合意により、中東和平については、国連の安全保障理事会が出している二つの決議に基づいて方向性を定めることになりました。サダト大統領の訪問が功を奏して、イスラエルとエジプトの平和条約が合意されることになり、その履行のためにイスラエル軍はシナイ半島などから撤退します。
これはうまく運びそうだったのですが、1981年10月の戦争記念パレードでサダト大統領が閲兵していた際、イスラムの急進派運動であるジハード団に属するエジプト軍兵士が大統領を射殺します。世界的な大事件でした。
これにより、エジプトとの仲が妙なことになりますが、平和条約を結んでいたイスラエルは比較的おとなしく撤兵します。しかし、レバノンからイスラエルへの攻撃が始まったため、イスラエルも業を煮やし、パレスチナの難民キャンプで虐殺を行うというとんでもない挙に出ます。
こうしたことは、一旦始まると泥仕合になり、イスラエル全土に住むパレスチナ人が怒りを表明します。この人たちが、女性も子どもも含めて一斉に蜂起し、手に石を持ってイスラエルを攻撃します。これは「インティファーダ」と呼ばれるもので、軍隊の攻撃ではありません。
●暴力によって否定されたオスロ合意
イスラエルの知識層の間ではさすがに「わが国のやり方は、まずいのではないか」とささやかれるようになり、国内世論が分かれ始めます。その時にアメリカがまた干渉を行います。ジェイムズ・ベーカー国務長官がシャトル外交を行い、マドリード中東和平会議開催を提案したのです。これで初めてイスラエルのイツハク・シャミル首相が、和平会議のテーブルに着くわけです。1991年の秋でした。
翌年、イスラエルでは労働党が15年ぶりに政権を奪還し、イツハク・ラビン氏が首相となります。彼はパレスチナ人を代表する政治団体PLOとの交渉を秘密裏に続け、互いに認め合って和平に入るのがいいのではないかという結論に達します。当時もうソ連が崩壊していて、イスラエルには敵がいない状態でしたから、その方が良いと考えられたのです。
この交渉は1993年にアメリカのビル・クリントン大統領の仲介を経て、有名な「オスロ合意」として結実します。イスラエルからはラビン首相とシモン・ペレス外相がノルウェーのオスロを訪れ、PLO代表のアラファト議長と握手をします。ところが、1995年にはとんでもないことが起こります。狂信的なユダヤ人青年イガール・アミルにより、ラビン首相が射殺されてしまうのです。
このように、イスラエルでは全ての和平交渉が、最終的には崩壊しています。当時、暗殺犯のアミルという青年は、ラビン首相のような社会主義がかった主張による平和はあり得ないと言い、彼の死を聞いて「満足」だと言っています。
●初の国民選挙で選ばれたのは国民的英雄の兄を持つネタニヤフ首相
こうした経緯に対して周辺諸国も非常に過激になり、イスラエルでは初めて国民の直接投票による首相選挙が行われることになります。それで選ばれたのがベンヤミン・ネタニヤフ氏でした。
ネタニヤフ氏はかなり特殊な首相ですが、安倍首相と非常にウマが合うようです。初めての戦後(第二次大戦後)生まれで、しかもイスラエル生まれの首相です。テルアビブ出身ですが、アメリカで勉強してMITを卒業しているので、非常に優秀な人です。エリートとして40歳前後で選挙に出馬し、当選後は政界のホープとして期待されます。
彼にはヨナタンという兄がいて、イスラエルの英雄として尊敬されています。兄は軍人で、イスラエルの特殊部隊のリーダーとして数々の作戦に参加しました。1976年7月、ウガンダのエンテベ空港でイスラエルの飛行機がパレスチナ・ゲリラにハイジャックされた時、人質となった乗客を救出するため、ヨナタンが先頭に立ち、特殊部隊として活動しました。敵の襲撃により彼一人だけが命を失うことになります。イスラエル人にとって、ヨナタンは紛れもなく英雄です。
どうやらネタニヤフ首相はこの兄に対して複雑な感情があるようです。あまりに偉いお兄さんなので、「俺だって」と力むところがあるのでしょう。ただ、ネタニヤフ氏の大きな功績として、10年間という初めての長期政権を持続していることがあります。32次から...