●『太平記』前半は、後醍醐天皇の一代記である
―― 前回、成立過程という話がありました。そこから考えると、これはそれこそ学校で習った範囲での話ですが、『平家物語』は序文にあるように「諸行無常」の色合いが表れている一方、『太平記』はまた違っている。『太平記』の成立過程とはどのようなものだったのでしょうか。
兵藤 『太平記』は、まず序文があり、その次の第一巻は1318(文保2)年の後醍醐天皇即位から始まります。そして、後醍醐天皇の倒幕計画に参加するような形で、第三巻では楠木正成が出てくる。それから第十巻では鎌倉幕府が滅び、第十二巻で後醍醐天皇による建武の新政が始まります。
後醍醐天皇は建武の新政を開始するのですが、この『太平記』の構成を見れば分かるように、第十四巻で足利尊氏が建武政権から離れていく。要するに、反旗を翻すわけです。
そして、その尊氏と戦い、楠木正成は湊川で戦死。その後、足利尊氏軍と戦った新田義貞が第二十巻で、北陸の福井市において死んでしまいます。
後醍醐天皇は結局、京都を追われてしまう。後醍醐が京都を脱出するのは、第十八巻です。京都を脱出して3年ほど、現在の奈良県・吉野に仮の御所を造り、そこに留まります。これが南朝です。
もちろん後醍醐は、京都に帰りたくて仕方がありません。ですが結局、帰ることができずに死んでしまいます。
後醍醐のような非常に英邁な君主で、ずば抜けた才能の持ち主が、このように残念な思いを残して死んだのは、当時の人たちにとっては怖いことでした。
―― 怨霊的なものでしょうか。
兵藤 後醍醐のような偉い人の場合は「御霊(ごりょう)」と言います。もっと昔でいうと、菅原道真が御霊になったようなことですね。
ですから、『太平記』は段階的に成立しています。後醍醐の即位と第二十一巻の崩御までがひとまとまりで、後醍醐天皇の一代記となっています。これを編集する意図・意義は、後醍醐の鎮魂だったと思います。
●足利直義によって『太平記』は厳禁に
兵藤 この『太平記』を作った人物は、『難太平記』という文献が残っており、はっきりわかっています。当時、法勝寺(ほっしょうじ)という京都で最大のお寺が、今でいうと平安神宮のあたりにありました。今も岡崎法勝寺町という地名が残っています。
その法勝寺再建の総責任者でもあった人物が、恵鎮(えちん)です。その恵鎮が『太平記』の原本を作り、足利直義のところへ持っていきました。持っていったということですから、直義がまだ観応の擾乱で失脚していないときです。
―― そうですね。ですから、後醍醐天皇が崩御してからそう遠くない時期に、もう『太平記』を作ったということですね。
兵藤 そうです。そして直義がそれを見ると、足利政権にとって非常に具合の悪いことが書かれてある。主人公となっている後醍醐を京都から追いやったのは、なんといっても足利ですから。
だから、これは非常に具合が悪いということで、「事実関係に誤りがある」「間違ったことが書かれてある」という理由で、訂正するまでは外部に出してはいけないと厳禁にします。この時点での最高権力者は、尊氏ではなく直義です。そして直義の周辺で、『太平記』の改訂事業が始まります。
●足利政権の改訂が加えられ、人物像が矛盾する結果に
その結果、どうなったか。後醍醐天皇が即位してどのような政治を行ったかということが第1巻の冒頭に書いてあります。そこに、後醍醐はこの時、「上(かみ)には君の徳に違ひ」とある。「君の徳」、つまり帝王としての資質に欠けると書いてあるのです。
「上(かみ)には君の徳に違ひ、下(しも)には臣の礼を失ふ」とあります。「上」は後醍醐のことで、「下」は北条高時のことです。後醍醐も北条もダメだった、というのです。これはいったい誰の立場かと言えば、当然、足利です。足利の立場で書かれているのです。
ですが、このすぐ後に、大飢饉が起こります。大飢饉が起こった時に後醍醐は、食べることを一切やめる。そして慈善事業を行うのです。
このようなときは今も昔も同じで、買い占めをする人が出てきます。後醍醐は、買い占めをした人の食糧を差し押さえて、京都の二条に仮屋をつくり、そのお米をかなり安い値で売ります。それが大変な善政として、絶賛されます。
つまり『太平記』は、冒頭で「君の徳に違ひ」などと言いながら、その舌の根も乾かないうちに後醍醐の善政が詳しく語られるのです。
『太平記』は、最初は後醍醐という優れた天皇を鎮魂する物語として書かれました。ですが、それがそのまま世の中に出回ると、そのような天皇を排除した足利政権にとって具合悪い。だから...