●経済活動を支えたヒューマニズム
── その静岡でつくった商法会所ですが。
童門 はい。
── その商法会所もそうですし、今の第一銀行もそうですけれども、渋沢としては、要するにお金をうまく回していくことで、資金に困っているが力のある人にお金を融通して、彼らが事業を起こして儲けるようになってくれば、それが返ってくるし、利子も返ってくる。経済のまさに中核にあるような機能で、本来、資本主義の社会ではこれこそ非常に重要な機能だと思いますが、フランスで見てきたこれをそのままやったわけですね。
童門 そうです。
── ある意味では、自分自身がお金がなくて助けられたことを、日本でもう一回やろうと。
童門 おっしゃる通りです。自分が、困った立場、どうしようか苦しむ立場に置かれたから、むしろその経験を一つの武器として生かして、日本に持ち込んで、同じような思いをする人を救わなきゃいけないという。ヒューマニズムでしょうね。
その後の渋沢さんは、最初にお話したように、あなたが今言われたような趣旨で企業を立ち上げることはもう大賛成で、企業によって国ではやれないいろんな補完事業がありますよね。今でいうガード(警備)の仕事とか、昔の逓信省などがやるような、流通(物流)の仕事。これらは今はもう全く民間で機能しているでしょ。だから、そういうことじゃないかな。政府がやらなきゃいけないんだけれども、まだやれない、あるいは永遠に金の関係でやれない事業を、民間がやってくれるなら大いにそれを応援しようということかなと。
そうして、500だか600だか、会社を立ち上げるわけです。その中には、うまくいかなかったものもあるかとも思うんですけどね。ただ、そのために渋沢さん、責任を負って、必ずその株を自分でも買っています。だからその保証はしているんですね。
●生涯で唯一変わらなかった肩書「養育院院長」
童門 渋沢さんは、名刺の肩書が始終変わります。
── はい。
童門 だけど、変わらないで、ずっと残っていた肩書が1つありましてね。それが「養育院院長」という肩書なんです。
── 養育院というと、孤児の福祉施設でしょうか。
童門 いえ、老人(年寄り)で身寄りのない人を収容するんですね。それから、今言われた孤児院も同時につくるんですよ。それもいきさつがあります。江戸時代、徳川八代将軍・吉宗は割合に民主的な人で、投書箱を作るんですね。そこに意見を入れる。そこに町医者が、江戸の町に身寄りのない年寄りがいて、放っておくと病気になって死んでしまうから施設をつくってほしいと投書をした。「できればわれわれ町医者が交代で看病しますから」と。吉宗は、「それはいい」と、これもやはりヒューマニストだった町奉行の大岡越前守(大岡忠相)と、小石川に小石川養生所をつくります。これが明治維新まで持ちこまれた。そして、市民の「不足前」(たらずまえ)を埋める意味で、各町会が貯金をしていたんですね。
── 不足前(たらずまえ)というと、不足したときの足し前ですかね。
童門 そうです。とても間に合わないから。
── それに備えて、あらかじめお金を積み立てたということですね。
童門 そうです。社倉(しゃそう)的に災害などに回せるような。使い方は、江戸の弱者のための金なんです。これが、巨額の残金を残していた。それで官軍、政府軍は、一時期「よこせ」と言ったらしいんですよ。だけど、これは勝海舟が恐らく突っ張ったと思うんです。「そりゃ申し訳ないけど、俺たちの金じゃねえ。幕府の金じゃないんですよ」と。「江戸の市民が積み立てた金なんだから、江戸の市民に返してやってください」と。で、西郷が「よか。勝先生の言うのは正しい」と。
そういうことで、返ってきたのはいいんだけど、そのうん十万の金の使いみちをどうするか。この時の東京の(府)長が、大久保忠寛(大久保一翁)という人です。静岡の時の静岡藩の家老で、渋沢さんの上役だった人ですね。大政奉還を進めた人でもあります。この人が「弱った」と言って、幕府から引き継いだ市民のための助成金の使い道について、委員会をつくります。そして、渋沢さんは委員長を頼まれる。
結局は、かなりの部分をその養育院、そこの拡充あるいは定員を増やすことと、それから建物そのものをもっと補強するとか、いろいろなことに使うんです。水道整備。これは東京の町は水道が悪いから。羽村のほうからかな、きれいな水がいつも確保できるようにと。それから築地の埋立地の費用。それに充てているうちに、使い切ってしまったわけですね。
そういう答申をしたら大久保も喜んで、「じゃ、この通りいたしましょう」と。ただ、渋沢さんが用が済んでも、何かまだ何か用がありそうな顔をしている。「何だ、渋沢君」と。かつての部下ですからね...