●幼少期からすでに投資家としての才能を開花させていた
―― では桑原先生、次にウォーレン・バフェットの詳しい講義をお聞きできればと思います。まずはバフェットの略歴から教えていただいてよろしいでしょうか。
桑原 はい。ウォーレン・バフェットは1930年、大恐慌の翌年に、アメリカのネブラスカ州オマハという非常に田舎で生まれています。バフェットによると、当時はオマハに郵便が届くのに1週間かかるという言い方をしているぐらい、情報がなかなか届きにくい中部の町です。
6歳の頃から、祖父が小さなスーパーマーケットをやっていたこともあって、祖父のところで缶コーラやチューインガムを仕入れて、それを隣近所の人たちに売るという非常に小さなビジネスを始めています。そうしたビジネスを続けることによって11歳のときには120ドルを貯め込んでいます。これは当時としてはかなり大きなお金です。
そのお金を使ってバフェットが初めてやったのが株式投資です。姉のドリスを誘って、シティーズ・サービスの6株を、1株約38ドルで購入し、40ドルで売却して、5ドルずつの利益を得ています。これがバフェットにとっての初めての株式投資ですが、その株は後に200ドルを超えました。このことによって、バフェットはたくさんの教訓を得ています。
1つ目は姉、つまり「他人のお金を使ってはいけない」ということです。2つ目は、「目の前の日々の株価の動きに拘泥してはいけない」ということです。そして3つ目が、「慌てて利益を得ようとしてはいけない」ということです。こういったことを11歳にして教訓として学んだことが、後々のバフェットの投資にも大きな影響を与えています。
―― 1941年というと、太平洋戦争の始まるときです。当時の120ドルといったら、金額の規模もやはり相当大きいですね。
桑原 そうですね。そのお金を貯めたことで、周りの親戚や親たちも、「この子はすごい」とびっくりします。それ以来株式投資でお金を貯めることが大好きになっています。
それからすでに1943年、13歳の頃にはもう所得税を申告することになっています。このとき父親のビジネスパートナーの奥さんに、「僕は30歳になるまでに百万長者になる」と宣言しています。日本でも100万ドルの夜景と言ったりしますが、自分はお金持ちになるとはっきり宣言しています。今は100万ドルといっても大した金額にはなりませんが、当時としては非常に大きな金額です。
ただし、ここで特徴的なのは、バフェットはお金を増やすことは好きなのですが、お金を使って贅沢をしたい、あるいはお金を使って何か威張りたいなどの気持ちは全くなくて、お金が増えるのが大好きな少年だったということです。
―― 増やすこと自体が楽しいというのは、少しゲームっぽいところがあるのでしょうか。
桑原 そうですね。バフェット家の昔からの教訓に「使うものは入るものよりも少なく」という教訓がありました。そうやっていけば人は貧乏にはならずに、それなりに豊かに生きられるというのがあって、その影響が非常に大きかったです。また、お金を持つことによって、人に使われる、あるいは嫌なことをしなくて良いなど、ある程度独立した人間になれるということを早い時期に感じていたようです。
その頃のバフェットの読書の仕方は特殊で、オマハの図書館にある金融やお金儲けに関する本は全て12、3歳の頃には2回、3回読んでいます。その中の1つに『1000ドル儲ける1000の方法』という本がありました。1000ドルを1000やれば百万長者になれるわけですが、このときにバフェットは複利でお金を増やしていくことの意味、それから今のお金を上手に運用していけばそれはとても大きなお金になることを学んで、それを実践していきます。この本に書いてあった、「人は考えるだけではダメで、実践しなければダメだ」というのを見て、自分自身もそういう生き方をしようと強く感じています。
―― ちょうど中学生ぐらいのときですか。
桑原 そうですね。
―― その段階ですでに複利から何から目覚めたということですね。
桑原 そうですね。
●投資家としての道を志し、生涯の恩師に出会う青年期
―― さらに進みます。
桑原 高校を卒業する頃には、卒業アルバムの将来の夢に「株式ブローカー」と書いています。言葉は少しあれですが、今でこそ株式ブローカーや証券会社は正しくて素晴らしい職業になっています。しかし、日本で言えば戦争が終わった頃である1947年に、株式ブローカーを目指すのはあり得ないことです。
しかし、自分が生きる道はそれしかないというぐらいに、株式で生きていくことを強く感じて、その後、一回名門のペンシルベニア大学ファイナン...