●「アジアの覇者」気取りが招いたプラザ合意
実は半導体摩擦の背景に、もっと恐ろしいことがありました。日本の対米輸出があまりにすごかったため、圧倒的な対米黒字を呈していました。これをなんとかしないといけないという大戦略があり、ベーカー財務長官というよくカウボーイハットをかぶるテキサス人がとてつもないことを行ったわけです。世界の常識を完全に破ったのですが、それがプラザ合意です。
1985年当時、日本は確かに土砂降り輸出をしていました。また1985年と86年の2カ年にわたっては、日本の1人当たりGDP(ドル換算)がアメリカを上回ったときがあるのです。日本は非常に得意になった面もあり、自分では「アジアの覇者」気取りでしたが、これで完全にアメリカの虎の尾を踏んだわけです。
1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルに先進5カ国の大蔵大臣と中央銀行総裁が極秘に呼び集められます。日本からは竹下氏が訪米しますが、大臣が突然動くと大きな話題になります。そこで彼はゴルフ場を二度ハシゴした帰り道、ゴルフクラブと一緒に羽田空港へ乗り付け、気がついたらニューヨークに飛んでいた。日本のメディアは皆、肩透かしを食らったのですが、そこまで注意して行ったわけです。
現地ではベーカー氏が事前に欧州各国に周到な根回しをしていて、竹下氏が着いたらサインさせるだけになっていました。経産省や財務省も事前にそれを承知していて、トータル15分で儀式は終わり、サインしたのだそうです。
これはアメリカの対日赤字が突出していたために、円高・ドル安にシフトしようということでした。政治が為替レートに口を出すのはタブーですが、ベーカー氏にはそんな規範はなく「口先介入」どころか平気で「大声の」介入をしたわけです。日本ではたちまち為替レートが変わり、24時間で1ドル235円から215円になって、1年後には150円台になっていきました。
これはレーガン政権のときのことです。「双子の赤字」を抱えて大変なことになっていたレーガン政権では、日本が諸悪の根源だということになったようです。
●バブルの原因と結果が招いた「失われた20年」
プラザ合意のためにドカンと円が上がったものですから、輸出産業は当然、打撃を受けます。このため、日本は一時深刻な不況に陥ります。そこで政府と日銀は大規模な財政支出と公定歩合の極端な引き下げを行い、景気刺激策を取リました。
景気回復後の日本は、金融的な手段で需要を増やしていたために流動性が非常に高まっていました。日本経済は、実質的にそれを吸収する体力がなかったので、ほとんどが過剰流動性になり、株や土地への投機に流入しました。それで地上げが横行し、株価もとんでもなく上がります。「東京23区を売ると、アメリカが買える」とか、「日本列島を売ると、アメリカを4つ買える」など、バカな話が散々あった時代です。
当時は宮澤政権で、ベーカー氏に遠慮した形になり、政府・日銀の対応は非常に遅れました。ようやく4~5年たった1990年になって初めて強力な引き締め策を敢行します。
この間にバブルがとてつもなく膨張します。宮澤氏は、それに対してブレーキを踏めませんでした。90年3月、まず大蔵省が土地関連融資の総量規制を行います。金融の総量規制などは資本主義と呼べるものではなく、不動産業者の半分ほどが倒産しています。
そこへもってきて、(当時日銀総裁の)三重野康氏が金融引き締めを行い、公定歩合をガンと上げます。そのために信用収縮が起き、地価は急落、株価も急落します。地価の急落は担保価値を激減させますから、多くの企業は負債が急増します。金融機関は貸付金の貸し剥がしを強行しますが、企業はどんどん倒産して、何も返ってこない。そのために不良債権は全く減らず、逆に銀行が倒産する。こうして金融危機が深刻化します。
この結果、日本経済は急激に、しかも長期の不況に追い込まれます。これは象徴的ですが、「バランスシート不況」といわれるものです。バランスシート上の負債は減らないのに資産価値が激減するので、借金がそのまま増えてしまうわけです。企業はその返済のためにコスト削減をしなければいけないので、企業活動が萎縮します。生産と投資の減退です。さらに、不良債権を減らせない銀行は、どんどん破綻していきます。
結局、日本はこれ以降、失われた20年(そろそろ30年)となり、1990年代から2010年代初頭まで20年間にわたって1パーセント前後の極端な低成長となります。世界は高度成長だったのに、こういうこ...