●観客と演者の視点のギャップが生み出す「トラジック・アイロニー」
ソフォクレスの『オイディプス王』という劇は、ギリシア悲劇の中でもさまざまな意味で典型的な劇だと思います。それがどういう構造・効果を持っているのかを見る上で今回は、現代において「悲劇的アイロニー」と呼ばれている現象を少し見てみたいと思います。これは英語で “Tragic irony(トラジック・アイロニー)”と呼ばれていますが、現代の言い方で、当時はこういう言い方はありませんでした。
これはどういうことかというと、劇場の舞台の上で、オイディプスやイオカステ、クレオンなどの人たちを皆で演じています。そして、観客は同じ空間の中で周りからそれを観ています。実は観客の側はストーリーを知っています。つまり、オイディプスが誰の息子なのか、なぜ王様になっているのか、あるいはこれからどうなってしまうのかを、ディテールは多少変えますが、漠然とギリシア神話のストーリーとして知っているのです。
そのため、オイディプスが出てきた時点で、実は観ている観客の人たちはだいたいどういう状況なのかが分かっているのです。つまり、ゼロから全てを語るのではありません。観客の側がそのストーリーを知っているからです。ところが、舞台の上にいるオイディプスなどの人物からすると、自分たちは当然リアルにやっているので、そのことを知りません。もっというと、何も知らないのです。
何も知らないものと知っているもののギャップが、「トラジック・アイロニー」と呼ばれているものです。これがある意味、観ていると何ともいえない感情を起こさせます。
どういうことが起こるかというと、知らない人が知らないまま「ああ、これやったら、まずいよね」ということをどんどんやってしまうのを、観客はハラハラしながら観ているのです。それを当然、計算に入れて劇を作っていますが、これを特に『オイディプス王』では、「見える・見えない」という話と引っかけて展開しているのが面白いところです。
「私たちは現実を見ている。目の前にあるだろ、これが現実だって分かっているよ」と言っておきながら、実は現実が見えていないのです。自分が結婚している奥さんが、まさか自分のお母さんだなんて誰も思っていません。目が開いているオイディプスは、まさに自分が何者かが分かっていないのです。それが観客からはまさに見て分かります。
この「見える・見えない」という言葉もよく出てきますが、あとで少し紹介するように、とりわけ盲目の預言者テイレシアスとのやり取りで、それが本当にリアルに展開されてしまうので、なかなか面白いのです。
最初にオイディプスが「見える・見えない」の話をするところを、一つ読んでみます。テーバイの町の人たちが、「疫病から救ってください」と嘆願にやってきます。疫病が流行っている原因はどうも町が汚れているかららしいのです。これは宗教的な考え方です。町でやってはいけない殺人事件が起こったために疫病が流行っているのであれば、その犯人を捜して追放しなければいけないという話です。そのときに、前の王様だったライオスを殺した犯人が捕まっていないので、そいつがどうも元凶だということをお告げによって知らされます。それを受けてオイディプスはこう言います。
《ではわたしが元からやり直し、見えぬことを見えるようにしてみせよう》
これは直訳だと思います。つまり、現在の置かれている状況、すなわちなぜ疫病が起こっているのかは誰も分かりません。疫病だけが流行り、困っています。その原因は、今は目に見えない犯人です。どこかに隠れてしまっている殺人犯がいて、それを「見えるようにしてやろう」と、オイディプスが決意を示します。これが「見える・見えない」の場面です。
では誰が見えていて誰が見えていないのかというと、実は一番見えていないのはオイディプスです。なぜかというと、オイディプス自身がその殺人者だからです。
観客の側はストーリーを事前に知っています。ということは、今のセリフを聞いた段階で、「あ、こいつ自分で見せてやるって言っておいて、自分が見えていないよね」とか、「見せたら困るのは君でしょ」と、観客は心配してハラハラしてしまうのです。この観客が持っている視点と、舞台の上の人たちの視点のギャップが、「トラジック・アイロニー」と呼ばれているものです。
●反実仮想が生み出す悲劇的アイロニーの構造
少し次のところを見てみましょう。オイディプスは第一エピソディオンの先ほどのやり取りの中で、「この真相究明をするのだ」と言います。そして、テーバイの人々に向けてこう言います。少し読みます。
《かく申しわたすわたしは、この話にもこの事件にもかかわりのないよそ者である。よそ者でなかったなら、わた...