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『自然法爾章』で親鸞が伝えたかった「絶対他力」の真髄

【入門】日本仏教の名僧・名著~親鸞編(4)『自然法爾章』と絶対他力

賴住光子
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部倫理学研究室教授
概要・テキスト
『自然法爾章』は親鸞最晩年の書といわれ、上人が至った究極的な境地と尊ばれている。「自然法爾」とは、世界全体に満ち溢れている「救いの力」というものがあり、それによって“おのずから”救われるということで、「他力」の真髄を表す言葉だ。では阿弥陀仏とは何か。なぜその名を唱えることで人は救われるのだろうか。(全4話中第4話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:06:16
収録日:2020/09/30
追加日:2022/03/18
カテゴリー:
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≪全文≫

●親鸞の最終的な境地を示す『自然法爾章』


―― それでは、次の文章にまいりたいと思います。こちらは『自然法爾章』というものでございますね。これはどのような文章になるのですか。

賴住 これは親鸞が最晩年に書き残した文章であるといわれています。親鸞が最終的に行きついた境地を書いているとよくいわれている、有名な文章になります。

―― では読んでみたいと思います。

「自然(じねん)といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。」

賴住 まず「自然法爾」の「自然」ですが、「おのづから」そうなると、親鸞は説いています。要するに「行者のはからい」ではない、自分でそうするのではないのだということです。

 前回、「救われていると思えないからこそ、実は救われているのだ」という話がありましたが、それはまさに自分の力でするものではないことを表しています。

 親鸞はよく「絶対他力」といっています。「阿弥陀仏の力によって救っていただく」ということだから、自分がするのではなく、阿弥陀仏が向こう側から救ってくれるということをおっしゃっていると考えられます。

 ですから、「行者のはからい」ではないということをいっていて、「如来のちかひにてある」というのは、阿弥陀仏の誓願によって自分たちが救われているのだから「自然法爾」なのだ、という考え方になってくるかと思います。

―― なるほど。


●世界は「救いの力」で満ち溢れている


―― では、最終の部分を読みます。

「かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料(ため)なり。」

賴住 この「自然法爾」も、自分が向こう側から救われてくる、向こう側からの光や命の現われによって自分が救われてくるということです。それが親鸞の一番いいたいことだったと思うのですが、そのことを教えるために阿弥陀仏という姿が現われているということです。

 私たちは一般的に、阿弥陀仏という仏がいて、そこに光が宿るとか、それが命を与えてくれる、あるいは阿弥陀仏というものに一つのかたちを置いて、そこに何かの力が宿っ...
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