●徳川姓になる者、松平姓のままの者
片山 そのあと、「徳川と松平」という、またおかしな話があります。皆さんもご存じだと思いますが、徳川という姓は途中から使われます。徳川家康という人は、松平だったはずなのに、途中から徳川になるわけですね。
しかも、松平家が全て徳川になったのなら分かりやすいのですが、改姓したならともかく、松平家の中で、当主とその核心的な部分(というのも変ですけれど)だけが徳川になります。家康の子どもでも、もちろん他家に養子に行った人もいます。また徳川姓になってもいいのだけれども、松平姓のままである人もいるわけですね。
ということで、松平家だったはずの者が、当主が徳川を名乗るようになり、松平一族全部に徳川の姓を与えないで、一部分だけが徳川になるという、おかしな仕掛けをつくった。
ただ、これはなぜかというと、松平家は官位が欲しかったからです。そこで朝廷との「官位は由緒正しい血筋でないと渡せない」というやりとりの中で、「実は源氏だ」「実は藤原氏だ」などと(悪い言い方をすれば)もともとの出自がよく分からない松平家が一生懸命、系図を捏造する。そうして、朝廷の公家や関白など、いろいろなところにお金を渡して系図を認めてもらって、位を貰うわけです。これが京都の朝廷の一番重要な収入源だったのです。
武家の時代にどうやって食べているかというと、官位をあげるのです。だいたい戦国大名などというものは、(大変言葉は悪いのですが)どこの馬の骨か分からない人が下剋上でのしあがってくる。でも、然るべき位を貰おうとすると、「いや、この位は源氏でなくてはいけない」「平家でないといけない」「藤原氏でないといけない」となる。源氏や平家ということは、もともと皇族の血筋でないといけません。
でも、実際はそうではない。そうではなかったら、系図を捏造するしかない。「おまえ、これはインチキだろう」「いやいや、インチキではありません。よろしくお願いします」などと言って、関白、太政大臣、大納言、中納言、そのときの武家伝奏役などが、武家の位を斡旋する。下の公家から上の公家まで全ての者に、「よろしく」といった工作をする。戦国大名の家来などでも、京都に行って「よろしく」といったことを行って、無事に位を貰えると「うちの殿さまもそれなりに由緒があるらしい」と納得したりして、権威が備わっていく。これが戦国時代における武家の位の貰い方、あるいは戦国大名の位の貰い方のシステムです。
そういう中で「松平家は由緒が怪しいから」ということでいろいろなことがあったわけですが、とにかくそこで系図をつくった。(これは本当なのかなという話ですが)松平は実は、先祖は「得川(えがわ)」と言って、「とくがわ」とも読む。これは新田義貞などの新田の一族なのだ。新田の一族ということは、足利氏とも近い。つまり源氏の一族なのだ――。もちろんそういった伝承はあったのだと思いますが、そういう系図にしたわけです。
●イメージアップのため「得」から「徳」に変えた徳川のストーリー
これは私は、家康がもともと特に儒学に興味があったことと関係していると思うのですが――これは証拠があまりない話で、歴史小説家のよもやま話以上に学者としてする話ではないのですが――新田の一族であり関東にあった武家で「とくがわ」「えがわ」と言っていたのは、漢字にすると「得」なのです。足利の「かが」も「利」だったわけで、現世的な感じがします。松平家が自分の祖先で「えがわ」「とくがわ」と言っているのは、漢字では「得」なのです。それを「徳」に字を変えたのです。
先祖は「得川」なのだけれども、やはり喜ばしく、おめでたい吉のある字は「徳」です。要するに、この漢字を使うことによって、現世的ではなく、立派な人に見える。音は同じだけれども、「とく」を「得」ではなく「徳」に変える。現代の私どもが名乗っている姓もそういうことがよくあると思いますが、いろいろな理由によって、音は同じだけれども字を変える。字は同じなのだけれども読み方を変える。そうやって姓は発展したり、枝分かれしたりしていくものです。
しつこいようですが、徳川氏の場合は「得」から「徳」に変えて、「徳のある川」とする。これは、織田信長の「織田」などと全然違いますね。「羽柴」とも全然違います。「豊臣」は、明らかに人工的につくった姓です。「豊かな臣」というとても良い字になっているわけですが、そのつもりでつくったことが見え見えです。このことは誰でもが知っています。
だけど徳川の場合は、「もともとは得川です」というストーリーをつくる。そこで「『徳』という字も使っていないことはなかった。だから『得』ではなく『徳』の字に変えます...