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「権ある者は禄少なく」とは?徳川幕府260年の安泰の秘訣

家康の人間成長~戦略性をいかに培ったか(4)領地経営と幕藩体制の仕組み

小和田哲男
静岡大学名誉教授
情報・テキスト
徳川家康はライバルともいえる戦国武将たちから多くのことを学んでいる。武田や北条からは河川対策や鉱山経営、街道整備や伝馬制度など、先進的な領国統治の方法を学んだ。さらに関ヶ原の戦いで得た多くの領土を分配する際に、禄高と権力のバランスを取るなど、江戸幕府260年の安泰の基礎は、戦国時代に固まっていた。(全5話中第4話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:14:45
収録日:2022/10/03
追加日:2023/01/22
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≪全文≫

●武田、北条氏から学んだ領地経営の方法


―― (徳川家康と)武田との関係ですが、本能寺の変が終わった後、甲斐と信濃を攻略して自分の領地にしていくことになります。先生がおっしゃるように、そこで武田の遺臣などもずいぶん召し抱えました。では、領国の統治について、統治法などで武田から影響を受けたことはあるのでしょうか。

小和田 領地経営という点から見ると、武田の場合は有名な「信玄堤」というものがあります。河川の制御、要するに洪水をいかに防ぐかといった点で、いわゆる「甲州流川除(かわよけ)法」を家康は結構学んだのでしょう。後に有名な伊奈忠次など、河川対策に長けた人を登用しています。

 それからもう一つ、甲斐には金山がたくさんありました。そこから、おそらく金山収入のようなものが大事だということを武田から学んだと思います。その点で象徴的なのは大久保長安です。もともと武田の家臣だったのですが、武田が滅びた後、自分の家臣に取り込み、石見銀山や佐渡金山の奉行のような職を任せています。そういう点から、武田から学んだのは、いわゆる錬金術的なことが結構大きいのではないかと思います。

 さらに加えると、取り込んだ(武田の武士)800人のうちほぼ1割を家臣の井伊直政につけた。武田のいわゆる「赤備え」、つまり旗や鎧を赤に統一した軍団ですが、彼らを井伊直政につけたことで、「井伊の赤備え」ができたわけです。

 これらを見ると、武田から受けた影響は、家康のその後の発展にかなり大きな役割を果たしています。

―― 自分が領国にしたところからの影響ということでは、(武田の)次に小田原攻めがあります。秀吉に命じられて、これまでの領地から「関八州(関東)」への国替えとなりました。北条氏も領国統治では有名な大名ですが、こちらの影響はあるのでしょうか。

小和田 北条氏からの影響としては、北条氏がかなり先進的に行っていた検地があります。太閤検地の時と重なりますが、家康独自の検地を行う基礎として、検地の方法は学んだでしょう。

 もう一つ、北条氏の領地では街道整備と伝馬制が進んでいました。そうした彼らの進んだやり方を家康は後の東海道整備や伝馬制度にうまく取り入れています。

 私はよく「信長と家康の違いは何か」という質問を受けます。信長は自分に敵対した者に対しては徹底的な排除を行いましたが、家康はむしろ自分に敵対した者でも、使えるものはどんどん取り込んで成長した側面があります。

 先を走っていった信長のいいところと悪いところ、また、秀吉のいいところと悪いところを見て、悪いところは用いずに反面教師として、いいところを取り込んでいく。それにより、あれだけの天下盗り、つまり最後の覇者になれたのかという感想を持っています。

―― そのあたり、取り込み方が非常に柔軟ですね。

小和田 そうですね。信長はどちらかというとやや融通の利かない頑固なところがありますが、家康は比較的柔軟な考え方を持っていました。いいものはいい、使えるものは使おうというところがあったから、最終的にあれだけの天下人になれたという思いはあります。


●秀吉による中央集権的な国づくりと家康による徳川幕藩体制


―― 今、信長と秀吉についてのお話も出ましたが、「テンミニッツTV」で片山杜秀先生のおっしゃっていたことがあります。石田三成と家康が対立して、関ヶ原へと向かう局面です。

 石田三成的なやり方は、朝鮮出兵が典型的ですが、どちらかというと中央の官僚制で全て計画をして、全てを差配し動員をかける中央集権的な国づくりだった。一方、家康はそうではなく、それぞれの大名の自主性に任せながら、単に任せっぱなしにせず、うまく引き締めていくようなあり方が全然違ったのだ、ということでした。

 だから、もし家康が負けるようなことがあったら、(その後の)日本の形はずいぶん違っただろう、などという話もされています。先生からご覧になると、秀吉的な政治のあり方と家康的な政治のあり方というのは、どう違うのでしょうか。

小和田 今お話にあった通り、秀吉的なあり方は中央集権です。これは有名な話ですが、戦国時代、秀吉によって天下が統一されるまでは、各地に有力な大名がそれぞれの国をつくっていました。例えば北条氏。先ほど小田原攻めで滅ぼされた話がありましたが、それまでの北条氏は「関八州国家」という言い方をして、まさに関八州を自分の国という形で治めていました。四国も、長宗我部元親がほぼ四国全域を確保します。おそらく九州の島津も、九州全部支配下に置こうとしていた。私の呼び方では「九州王国」「四国王国」「関東王国」、さらに伊達政宗が東北の代表として、それぞれの地域で国をつくっていました。

 おそらく秀吉は、それに対して「いや、そうではない。日本は...
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