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厭離穢土欣求浄土――徳川家康の旗印に刻まれた宿題

家康の人間成長~戦略性をいかに培ったか(5)ブレーン集団と死生観

小和田哲男
静岡大学名誉教授/文学博士
概要・テキスト
徳川家康が戦国最後の覇者となったのは、またどんなことからも吸収し、誰からでも学ぶ姿勢が大きかったからかもしれない。家康の周囲には常にブレーン集団が存在し、知恵を寄せ合った。家康の死生観は「名を惜しむ」という当時の武士らしいものだったが、危難のたびに周囲から救いの手が差し伸べられる強運の持ち主でもあった。(全5話中第5話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:11:23
収録日:2022/10/03
追加日:2023/01/29
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≪全文≫

●多くの「ブレーン」を抱えていた徳川家康の「人を見る目」


―― 前回、本多正信の話が出ましたが、徳川家康は非常にたくさんブレーンを抱えて、ブレーンを使うのがうまかったというイメージがあります。家康とブレーンの関係はドラマなどにも描かれることが多く、織田信長が家臣と相談しているシーンは印象がないのですが、家康には正信などと一緒にお茶でも飲みながらしゃべっているようなイメージが強い気がします。実像としては、ブレーンとはどういう関係性だったのでしょうか。

小和田 最初の頃は武功派武将といって、酒井忠次をはじめとする「徳川四天王」がいました。榊原康政、本多忠勝、井伊直政と忠次の4人がブレーンという形で、いわゆる武功派武将が最初のうちはブレーンとして活躍しました。

 後にある程度戦いがなくなり、内政重視になってくると、正信や、その子の本多正純など、いわゆる「知恵袋」と呼ばれる相談役がいて、彼らとの相談の上で領国経営をうまくやっていったという側面があります。さらに晩年、将軍職を秀忠に譲った後、大御所として駿府に来た時には、学者、宗教者が中心になります。例の有名な林羅山、南光坊天海、金地院崇伝といった人を相談役のような形でブレーンに抱えていきました。

 私は、懐の深さが家康のすごいところだと思っています。一つには、有名なウィリアム・アダムス(三浦按針)のような外国人まで相談役にしています。あるいは、有名な茶屋四郎次郎という京都の豪商なども相談役に招いています。結構な人から多彩な意見を聞きたい、あるいはそういう聞く耳を持っていた家康だからこそ、あれだけの政権づくりができたという印象があります。

―― 家康の「人を見る」目として印象的なお話はありますか。人を選ばないということになってくると、どういうところでピンと来て登用することになるのですか。

小和田 これも一つのエピソードを話しましょう。もう将軍職を譲った後の話です。江戸で秀忠将軍を中心に政治が行われるのですが、ある時、一つの役職に空きが出た。秀忠と周りの重臣たちでいろいろ相談したが、いい人材が思い浮かばない。

 その時、秀忠付きの家臣だった土井利勝という、後に老中になる人が、「ここは一つ、駿府の家康様の意見を伺ってきましょうか」と言った。秀忠が「おお、そうしてくれ」と言うので、利勝は江戸から駿府に来て、家康に...
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