●武器の有償・無償の問題と「ピュロスの勝利」の意味
皆さん、前回(第1話)は、今のウクライナ戦争を考える上で「ピュロスの勝利(ピュロニアン・ビクトリー)」という言葉について少しお話ししました。
どちらが勝ってもピュロスの勝利なのだろうというのはこういうことです。ウクライナは東部領土のもともと占領されていた2州に加えて他の2州を合わせた東部4州のかなりの部分が占領されたというダメージがあります。さらに、それに付随して産業が破壊されました。それから都市において企業やサービス業、情報産業、何であれその企業のビルが破壊されてなかなか稼働していません。すなわち、平和がよみがえったところですぐに国民が戻るべき仕事場があるわけでもないし、雇用があるわけでもないのです。
そして工場が直ちに稼働するわけではありません。したがって、仮にウクライナが勝利という形式で終わったとしても、この勝利が、ただちに平和がよみがえるということや国民が戻るべき企業や工場がそこで健在だということを意味しないというつらさ、厳しさがあるわけです。
武器にしましても、欧米から現実に無限の援助を必要としておりますし、戦闘機以外のたくさんの武器が、ほぼウクライナの希望する形で入ってきております。その中でも、特にウクライナ軍が習熟していた旧ソ連製の武器はほとんど使い果たしてしまいました。ここで使い果たすと、他のポーランドをはじめとする旧ワルシャワ条約機構の加盟諸国からも来ている旧ソ連製の武器も使い果たしていくということになり、結局、欧米からの援助の武器はたいへん最新鋭で頼もしい限りなのですが、それを学ぶために兵器の改造をしたり、技術を習得したりしなければなりません。この大変さもあります。
戦争が仮に終わったとして、この武器の支援が有償なのか、無償であるのかということが、今、私たち日本人にも分かっていないのです。イメージとして無償供与をしているようなイメージを与えられていますが、そういうことは原理的になく、少なくとも全てに関して無償だということはあり得ません。
ベトナム戦争が終わった時に、ベトナムの政府はソ連への有償供与(援助は無償ではなかったので)を返すために大変な思いをしました。外貨がありませんので、どうしたかというと、ベトナム人が労働に出かけていき、外国人労働者として旧ソ連で働いたということはよく知られています。私もロシアのカザンというところに行った時に、飛行機でそのベトナム人たちに会いました。そのときに、ベトナム人たちに対しては、ロシア人の一般市民は横柄で、要するに、「お前たちはただこうやって援助を受けて、ここでもタダ同然で生活している連中なのだ」というようなことを露骨に言って、「席をこっちへ代われ」というようなことを言ったという、大変嫌な記憶があります。
私ともう1人いた日本人の学者2人は、「彼らが持っている切符の通り座ればいいし、君たちも切符の通り座ればいいのであって、そんなこと言うものではないよ」と言いました。いろいろと言ったので、「俺たちは外貨で乗っている。何か文句あるか」という感じで、「譲れ」というふうにはわれわれには言わないわけです。そういうところのいやらしさというものを非常に感じたことがあります。借りた物は返さなければいけないという原理だということなのです。
この辺りについて、このピュロスの勝利ということの意味が、次第に分かってくるのではないかと思うのです。武器の有償・無償の問題だけではなく、こういう戦争が自分たちの職場を奪う、そのダメージを否応なく認識していくことになるのではないかと思います。
●ペリクレスの古代アテネと現代のウクライナを比較
ところで、最近のヨーロッパではだいたいにおいて、戦争となると古代のペロポネソス戦争、あるいはアテネ民主主義の担い手であったペリクレスを引っ張り出して比較することが非常に多いのですが、最近でもフランスの哲学者であるベルナール=アンリ・レヴィという人は、現在のゼレンスキー大統領の戦争と、それからウクライナ国民の戦いという部分に対して、すこぶる歴史的な見方をしまして、ゼレンスキーをペリクレス、ウクライナ国民をアテネの市民になぞらえる論説を出したことに気がつきました。確かに、ゼレンスキーはこのレヴィも言うようにヨーロッパの平和的な国際秩序あるいは自由と民主主義、さらに法の支配というものを守る最前線の担い手になっているということのようです。それは当たらないこともありません。
しかし、歴史を学んでいる者から見てやや大雑把過ぎるのは、ペリクレスが登場した時のアテネというのは、アテネの歴史の中で最も繁栄した時期でありまして、その市民は繁栄を極め、そ...