●人間の始まりも世界の始まりもはっきりしないケルト神話
―― そのような中で、人間の始まりはどのように描かれるのでしょうか。
鎌田 そこは先ほど言ったように、いわゆる天地創造神話みたいなものがはっきりとしません。なので、人間の始まりというのも、そういう意味でケルト神話の場合にははっきりとしません。
日本神話の場合だと、イザナギ・イザナミの国産み神話というものがあります。高天原が原始の混沌のようなところからできてきたとか、天地開闢と神々の立ち現れと、その神々の子孫である人間の世界とか、人間が住むところの葦原の中つ国の国土が大八洲国(オオヤシマノクニ)としてできたとか、明確なつながりが非常にわかりやすく『古事記』や『日本書紀』に描かれています。だから、『日本書紀』を基準にして考えると、とても分かりやすいのです。
ところが、ケルト神話の場合は断片的な伝承の寄せ集めをして、再構築をしなければいけません。そのため、人間の始まりもよく分からないし、世界の始まりもよく分からない。つまり、欠損部分を含んでいる。神話がもともとあったと思われますけれど、そのもともとあったものが全部拾われて、全部体系的に伝承されているわけではないのです。その非常に偏った一部分の神話を集めてきて、その中にあるケルト神話としてわれわれが再構成している。そのようなものですから、そんなに簡単に、日本神話のように『古事記』に基づいてこう言えるというものとは違う。ですから、なかなかそこのところは明確にはいえないということになります。
●ケルト神話は多神教神話でアニミズム的要素を持っている
―― そうしますと、神様の種類も比較的に明確ではないのですか。
鎌田 神様は、もちろん宗教学的分類でいえば多神教ということになります。ギリシア、メソポタミア、エジプト、中国、インド、日本も含めて、多神教です。そういう意味では、ユダヤのヘブライ神話の中にあるものが明確な一神教の体系で特異なもので、それ以外はほぼ多神教的な神話や物語なのです。
そういう点では、多神教神話が多数派で、ユダヤのほうが少数派になります。
けれども、その多神教にも大きな特色があります。神々は不死であるとか、あるいは不死でないとか、神々も殺戮されて死んでしまうといった話は例えば北欧神話にもありますし、ギリシア神話にも一部あります。メソポタミア神話の中でも、神は絶対に不死というわけではないなど、さまざまな物語要素が含まれています。
日本の場合も、神は不死とはいえません。神は死ぬこともあると描かれています。例えばイザナミの神がそうですね。火の神を産んで、黄泉の国へ行くといった話なので、神自らが死ぬということが物語の重要な要素としてあります。
そのような観点からケルト神話を見ていくと、比較的、日本の神話に近い要素があります。それは、精霊信仰のようなもの、妖精を含めた神々の多様性という点で、ギリシア神話以上に多様な神々の世界があるということです。
ギリシア神話を統括するのはゼウスという神で、ある種の「主宰する神」がいるわけです。日本の場合は、天照大神(あまてらすおおみかみ)ということになりますが、その対抗軸としての大国主神(おおくにぬしのかみ)がいます。
ケルト神話の場合は、中心をなす主宰神のような神格がクリアではないので、その点は日本神話ともギリシア神話とも異なります。
けれども、日本の神話により近いところとしては、妖精や小人などに表象されるような多様な霊性・霊的存在の世界を含み持っていることです。 日本の場合、少彦名神(スクナヒコナノカミ)というのは小さい神として登場してきますが、こういった要素が、巨人族を中心として話が展開していくという世界観と少し違います。ここが面白いところです。
タイターンはギリシア神話では非常に重要な意味を持っています。その神が巨大であるという世界観は、一つの重要な要素としてあります。北欧(神話)にも巨人族がいて、巨人との戦いはなかなか難しいので、その巨人に対抗するために人間も強くならなくてはいけないし、また、人間にその巨人族がどのように関わるかによって人間の位置づけが変わってくることにもなります。
でも、アイルランドでは敗れた神々が小さくなっていく、つまり小さな神々がいるということです。この小さな神々がいるという世界観は日本の神話にも重要な要素としてあります。少彦名神の話も、小さい神々が、しかし大きな働きをするというものです。そういうものを取り込んで出雲の物語をつくっています。
例えば、知恵の神ともされるクエビコは案山子(かかし)のような存在ですが、このようなある種のマイナーゴッド(マイナーゴッズ...