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「同盟の真髄」と日米関係の行方
同盟は、同盟の相手方と同じことをやることではない
「同盟の真髄」と日米関係の行方(4)agree to disagree
政治と経済
杉山晋輔(元日本国駐アメリカ合衆国特命全権大使)
同盟は、同盟の相手方と同じことをやることではない。「agree to disagree(合意しないことに合意する)」をきちんと示し合う関係こそ、同盟国の理想である。中華人民共和国の樹立が宣言された1949年以降、当時「血の同盟」といわれたイギリスとアメリカは、対中政策において異なる姿勢を示した。同盟国だからといって、ただ同調するのではない、本質的な同盟の姿をそこに見て取れる。(全8話中第4話)
時間:7分38秒
収録日:2024年4月23日
追加日:2024年7月3日
収録日:2024年4月23日
追加日:2024年7月3日
≪全文≫
●「agree to disagree」をやった同盟こそ長続きする
“We are with you”「グローバルパートナーだ」と言って、大見得を切った岸田さんは、「アメリカがやることについては常にその通りだから私たちも同じことをやります」ということを意味しているのでは「ない」のです。
ときとして、アメリカと違うことを言う。何度も言いますように、同盟の本質を毀損しないで今のようなことを言うのが同盟の本質です。
実は、このことを強く示した歴史上の例があります。それは先ほど(第2話)申し上げた「血の同盟」といわれる、イギリスとアメリカの同盟です。
1949年の10月1日に、長い国共内戦を制して毛沢東指導者が北京に中華人民共和国の樹立を宣言します。蒋介石指導者が台湾に逃れて、中華民国を再建するわけです。日本は吉田(茂)さんがその時にJ・F・ダレスに言われて中華民国政府と平和条約をやって、それが日華平和条約になるのです。
それで、1972年のニクソン訪中のあと、田中角栄さんが行って、今の日中国交正常化になる。というのが歴史の教えてくれるところなのですが、そういう流れの最初のところで、中華人民共和国政府が樹立されたあと、当時イギリスはアトリー内閣で、チャーチルが終わったあとの労働党内閣になって、チャーチルと違うことをやりたいという国内のいろいろなこともあったし、香港の権益のことがあったのです。
イギリスの労働党内閣は、1950年の1月6日に北京の政府を承認します。もちろんアメリカの政府は蒋介石と話をしていましたから、日本の吉田(茂)さんにもちゃんと台湾とやれと言って、吉田さんが北京に行きたかったかという話は、私はどこまで本当だったかというのは調べないと分かりませんけれど、先ほど申し上げたようなことになるのです。
つまり「血の同盟」といわれたロンドンとワシントンは、当時の中国というのは内戦のあとですごく混乱をしているときですから、今のような世界の第二の経済大国になってものすごく大きな存在感があるところではなかったかもしれないけれど、しかしそれでも当時から人口8億人くらいの大きな存在感を持った、なんといっても中国ですから、その中国に対する外交政策において、(ロンドンとワシントンは)全然違う政策をやります。
それが一緒になるのは1972年のニクソン訪中のあとなのです。ちなみに、アメリカが中華人民共...
●「agree to disagree」をやった同盟こそ長続きする
“We are with you”「グローバルパートナーだ」と言って、大見得を切った岸田さんは、「アメリカがやることについては常にその通りだから私たちも同じことをやります」ということを意味しているのでは「ない」のです。
ときとして、アメリカと違うことを言う。何度も言いますように、同盟の本質を毀損しないで今のようなことを言うのが同盟の本質です。
実は、このことを強く示した歴史上の例があります。それは先ほど(第2話)申し上げた「血の同盟」といわれる、イギリスとアメリカの同盟です。
1949年の10月1日に、長い国共内戦を制して毛沢東指導者が北京に中華人民共和国の樹立を宣言します。蒋介石指導者が台湾に逃れて、中華民国を再建するわけです。日本は吉田(茂)さんがその時にJ・F・ダレスに言われて中華民国政府と平和条約をやって、それが日華平和条約になるのです。
それで、1972年のニクソン訪中のあと、田中角栄さんが行って、今の日中国交正常化になる。というのが歴史の教えてくれるところなのですが、そういう流れの最初のところで、中華人民共和国政府が樹立されたあと、当時イギリスはアトリー内閣で、チャーチルが終わったあとの労働党内閣になって、チャーチルと違うことをやりたいという国内のいろいろなこともあったし、香港の権益のことがあったのです。
イギリスの労働党内閣は、1950年の1月6日に北京の政府を承認します。もちろんアメリカの政府は蒋介石と話をしていましたから、日本の吉田(茂)さんにもちゃんと台湾とやれと言って、吉田さんが北京に行きたかったかという話は、私はどこまで本当だったかというのは調べないと分かりませんけれど、先ほど申し上げたようなことになるのです。
つまり「血の同盟」といわれたロンドンとワシントンは、当時の中国というのは内戦のあとですごく混乱をしているときですから、今のような世界の第二の経済大国になってものすごく大きな存在感があるところではなかったかもしれないけれど、しかしそれでも当時から人口8億人くらいの大きな存在感を持った、なんといっても中国ですから、その中国に対する外交政策において、(ロンドンとワシントンは)全然違う政策をやります。
それが一緒になるのは1972年のニクソン訪中のあとなのです。ちなみに、アメリカが中華人民共...