●ロバート・ベラーが説いた「市民宗教論」
ロバート・ベラー。これは亡くなる1年前に東大に来て講演した時の写真で、彼は丸山眞男の盟友でした。ちなみに丸山眞男という人は「福澤惚れ」というのでしょうか、福澤諭吉の精神を継承しようとした人でもありました。
ベラーは宗教社会学をやった人で、『宗教とグローバル市民社会 ロバート・ベラーとの対話』を出しています。彼をとりわけ有名にしたのは、「市民宗教論」です。彼は「アメリカを支えているのは、市民宗教である」と言いました。既存のキリスト教の○○教会などというものではなく、アメリカ全体が一種の市民宗教を持っている。それがアメリカの精神なのだと言ったわけです。
その精神に訴えることによって、彼はベトナム戦争に対して、「この戦争は、アメリカのシビリゼーションに反する」という論陣を張って反対していった人でした。
●ベラーの問い「日本はどこに?」
彼は日本びいきの人ですが、東京大学駒場(UTCP)で行った講演では、こんなことを言いました。
「日本は世界の大国であり、第三の経済大国であり、驚いたことに、海上自衛隊は世界第二位の力があるようですが、健康保険制度やその他のさまざまな点を比較しても、日本はベストな国々の中でもトップに近いということです。日本はモデルとなる社会なのです。」
ところが、こう続けるのです。
「世界において日本はどこにいるのか。どこにもいない。どこにも。私たちは日本を必要としています。なぜなら、日本は世界でリーダーシップを発揮すべき多くのよさを代表しているからです。」
しかし、こう言います。
「日本が豊かで成功した国であるにもかかわらず、実際には世界から身を隠し、どこか洞窟の中にいるということに対して、政府が責任を取るように仕向ければいいではないか。そうしたイニシアティブは、市民のさらなる関与と、日本が世界においてリーダーシップの役割を果たすことの両者を共に強化するのだと思います。」
●ポストモダンの価値相対主義に疑問を投げ掛けたベラー
すなわち、日本の世界に対する貢献が待たれている、とベラーは言っているのです。もっと言ってしまえば、彼は世界を「日本化」すればいいと考えていたわけです。しかし、そのことを日本は引き受けようとはしません。それを非常に残念がりました。
そして、一体どうしてこうなっているのかについて、ベラーはどう考えたのでしょうか。彼は丸山の盟友であったこともあり、一種のモダニスト(近代主義者)として「近代というものを諦めてはいけない」と考えたのです。
われわれは、近代の後にポストモダンの時代を生きました。それは、ある種の「相対主義」をもたらしました。「何でもありなのではないか」という価値相対主義です。啓蒙思想や人権、民主主義など、近代が掲げたいろいろな理想が、徹底的に疑われるようになりました。そういうことを経験したわれわれに対して、ベラーは「そうではないのではないか」と、疑問を投げ掛けたのです。
●倫理的プロジェクトとしての近代をもう一度受け入れる努力を
近代には、確かに光と影が存在します。とりわけ影は深いのです。
冒頭で、今年は第一次世界大戦から100年後だと申し上げましたが、近代とは戦争や植民地という形で「他者の支配」をもたらした時代でもありました。また、資本主義に関しても、影や闇の部分は非常に深いものがあります。
ですから、「近代を丸ごと否定したい」といった気持ちも、もちろん分からないではありません。しかし、ベラーは、「それでも近代は、やはり人々を解放した光の面もあったのではないか。倫理的プロジェクトとしての近代を、もう一度受け入れていく努力をした方がいいのではないか」と言うのです。
なぜならば、彼にとって日本や世界のファシズムとは、丸山が分析したように、実は相対主義に陥り、特殊主義に陥った結果であったからです。すなわち、「普遍を諦めた」結果であったのですが、そこにもう一度戻ることはいけないと、彼は言ったわけです。
●グローバル市民社会と、それを支える「経済」の可能性
今日のグローバルな時代において、ベラーが指摘した日本の問題と「倫理的な近代を諦めない」という主張を引き受けるとすれば、どのような仕方があるのか。どうすれば、このグローバルな社会、とりわけグローバルな市民社会に対する貢献ができるのか。これを私たちは考える必要があるかと思います。
そのときに、経済は非常に重要なファクターになるでしょう。このことはベラー自身が繰り返し強調しています。
「近代を支えているのは三つの領域である。それは、まず経済、次に公共圏(パブリック・スフィア)、それから主権を有した人民である。この三つ...