のちに新撰組を結成する近藤勇や芹沢鴨ら浪士組は、そもそもなぜ京都に向かうことになったのか。そこには上洛する将軍を警護させるという目的の下、浪士組を結成させるという清河八郎の計画があったのだが…。今回は、新撰組結成時の状況、京都での評判について、芹沢鴨が京都で起こしたといわれる力士乱闘事件や大和屋焼き打ち事件の真相とともに解説する。(全9話中第7話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●清河八郎の「構想」と参加した浪士組の面々
―― ちょうど今、京都で作った羽織の話になりましたけれど、そもそも京都に上るきっかけについてお話を伺います。先ほどから近藤勇の周りにいた人たちもそこに参加していくということになるわけですけれど、これも浪士組はかなり幅広い人たちが参加しているわけですよね。上京の経緯はどういうことになるのですか。堀口さんはどうお考えでしょうか。
堀口 これは、将軍が文久3(1863)年の2月に京都に上洛をしようということになりましたので、その警護の人たちを集めるというところで浪士組という(ものが結成されたのですが)、浪士というのは武士ではないのです。訳あって武士ではない人たちを集めて、警護に当たらせるというようなことを清河八郎が立案した計画が採用されて、というところだったわけなのです。
この時の応募の条件を見ますと、身体健康でやる気がある人だったら、けっこう誰でも参加できるというようなところなので、本当に有象無象というか、一時金も支給されるので腕に覚えがあって京都に行きたいというような人たちがワッと集まってきました。その中に近藤勇たちもいたわけです。この人たちで京都に行きます。
―― ここは松下さん、どうですか。
松下 そういう人たちもいるのですけれど、実際にはそうではない人がたぶん半分以上いるのです。
―― そうではないというのは何ではない人ですか。
松下 一時金(目当て)や一旗揚げるぞということではない人たちがけっこうな割合でいました。それがどういう人かというと、清河八郎とその仲間たちがヘッドハンティングしてきた人たち(で、そういう人)がかなり多いのです。
―― なるほど。
松下 北関東の勤王家といわれる人たちを清河八郎たちがヘッドハンティングしてきて集めた人たちです。それから、そのさらに知り合いの知り合いのような、そういうネットワークで集まってきた人たちもかなりいて、「一旗揚げるぞ派」のほうが少なかったりするのです。
―― なるほど。そうしますと、これも有名なところですが、1回京都に行ってから「清河八郎がいよいよ本心を現して勤王のために」というような流れになっていきます。もともとそういうところだったということなのですね。
松下 そうですね。清河八郎の意図を完全に把握していたかどうかまでは分からないですけれど、もともと幕...