●吉田松陰の語られ方は時代によって変わる
中島隆博でございます。今日は、吉田松陰の思想をテーマにお話をしたいと思います。吉田松陰は30歳に満たない年齢で亡くなりました。一言でいうと「現在進行形の思想」が吉田松陰の思想だろうという気がしています。
というのも、吉田松陰自身はその短い生涯の中で、ある思想を一貫して唱えたというよりは、自分が生きた時代を見ながら、あるいは、その時代に巻き込まれながら、大きく思想を変えていったからです。そうした時代を映す鏡として、吉田松陰の思想を捉えることができると思います。
それと同時に、吉田松陰をどう語るのかがかなり大事なことだと思います。吉田松陰の語られ方は、時代によって相当に変わっていきます。ということは、吉田松陰自身が、時代を映す鏡になっているという面もあるのです。吉田松陰をどのように読むのかということは、その時代をどうつかまえていくのかという議論につながるだろうと思っています。
吉田松陰の思想が「現在進行形の思想」であるとすれば、その思想と向かい合うことは、私たちが現在進行形で起きている事柄を、思想的にどうつかまえるのかということと深く関わってくるでしょう。
●最初に松陰伝が書かれたのは日清戦争直前
最初に、吉田松陰の語られ方をざっと概観してみたいと思います。この点に関しては、田中彰先生の『吉田松陰 変転する人物像』(2001年)という著作があります。これは、大変良くできた本だと思います。そこで、この本を中心に、少し解説を付け加えていくという形で進めていきます。
実は、吉田松陰について語ることは、彼の死後すぐに行われたわけではありません。吉田松陰の門人によって吉田松陰伝が書かれることはありませんでした。その試みはあったようですが、例えば、高杉晋作などは、そういった試みに対し、伝記のような書き方では松陰先生のことは書けないだろうと批判したともいわれています。
最初に『吉田松陰伝』が書かれたのは、明治24(1891)年です。日清戦争の直前期、つまり明治半ばになって、ようやく書かれたわけです。それは、ある種の史料集ともいうべきものですが、野口勝一と富岡政信の共編で、彼らは旧水戸藩の士族でした。つまり、自分の弟子ではなく、旧水戸藩の士族によって松陰の伝記が編まれていったのです。後で説明しますが、吉田松陰にとって水戸で学んだことは大変大きな意味を持ちました。
その2年後に徳富蘇峰の『吉田松陰』(1893年)が書かれます。おそらくこの本が、近代日本にとっての松陰とは何であるかを最初に問い掛けた本だと思いますし、ここで定義された革命家・松陰というイメージが、その後の松陰像を深く規定していったのではないかと思います。
●徳富蘇峰の吉田松陰像─革命家
田中先生は以下のようにまとめています。
“第一に、徳富蘇峰は、吉田松陰の伝記を書くことによって、松陰を維新の「革命家」(革命の本幕に登場する「第二種」の「革命家」)として規定した。第二に蘇峰は、その松陰を「真誠の人」とし、そこに「日本男児の好標本」を見出し、「維新革命の健児」としたのである。それは第三の問題と関連する。第三に、松陰を右のような「革命家」と規定した背後には、明治藩閥政府に対する蘇峰の批判があった。それゆえに「第二の維新」という「革命」を彼は望んでいたのである。それは蘇峰のみならず、民友社の同人、あるいは平民主義を標榜する史論家たちに共通する「第二の維新」という「革命」願望だった。”(中公新書『吉田松陰 変転する人物像』より引用)
この指摘は非常に重要なものだと思います。実際に蘇峰の本を読むと、その緒言にこう書いています。この本は吉田松陰と銘打ってはいるけれども、“もし名実相副わずとせば、あるいは改めて『維新革命前史論』とするも不可なからん”。これが単なる吉田松陰伝ではないということを、蘇峰本人もよく分かっていた。そうではなく、明治維新を革命として捉えていく、その中に、吉田松陰は不可欠の思想家として存在している。こういうフレームワーク(枠組み)を、蘇峰は作っていったということです。
よく考えてみると、吉田松陰が明治維新を直接に実行したわけでは当然ありません。吉田松陰の門人たち、例えば高杉晋作などが、明治維新に参加していきます。ただ、実際の明治維新において本当の原動力は何だったかといえば、長州藩以外の薩摩藩、土佐藩といった勢力も非常に重要です。そのため、松陰を明治維新という革命の思想家として捉えることは、これはこれで新しいアイデアだったろうと私は思います。
●蘇峰は松陰に近代日本のエートスを発見
ではなぜ、吉田松陰をそのような革命家として定義する必要があったのか。徳富蘇峰の『吉田松陰』が...