●井上哲次郎の松陰評(1)陽明学者
吉田松陰の思想について話を続けたいと思います。前回、田中彰先生の議論に基づいて、それを補足する形でお話をしましたので、今度は田中先生が触れられていない文献に注目してみたいと思います。
それは、井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』(1900年)です。徳富蘇峰の『吉田松陰』の後に出た本ですが、井上哲次郎は、松陰の没後50年記念大会でも追頌(ついしょう)演説をしていますので、彼が吉田松陰に対し並々ならぬ思いを持っていたことは確かです。この本は井上の三部作といわれるもののうち、最初に書かれた著作で、松陰を陽明学者として定義しています。この陽明学者・松陰という像、あるいはイメージは、当時相当に共有されたイメージだったのだろうと思います。
ただ、実際に松陰の著作を読んでみても、いわゆる陽明学者、すなわち王陽明の考えを祖述するという意味での陽明学者とは、全く違うものだろうと思います。ですから、松陰は、王陽明、あるいはその周辺の門人たちを祖述して奉る、というやり方とは違う形で、陽明学を自分のものにしていったのです。松陰はそういう思想家だと捉えた方がいいのかもしれません。
井上は、吉田松陰に関して、こういうことを言っています。現代語に訳して紹介しますと、井上は“その学問はいまだ必ずしも陽明に限られないのだが、しかし甚だ陽明に近いものである”と言っているのです。松陰の読書歴を見ると、陽明の『伝習録』を読んでいます。また、陽明学左派と通常呼ばれている李卓吾(李贄)の『焚書』を読んでいますので、松陰がラディカルな陽明学に触れていることは確かです。それから、大塩平八郎の『洗心洞箚記』を読んでいることからも、松陰が陽明学に近づいていたことは確かですが、松陰自身が「私は陽明学者ではない」と言っている箇所もあります。そのため、この井上の定義は、少し割り引いて考えた方がいいのではないかという気もしています。しかし、この本が陽明学者・松陰という像をつくったのは確かだと思います。
では、松陰の思想家としての内実に関して、井上がどう述べているかというと、実はあまり高く評価していません。井上はこう書いています。松陰は29歳で亡くなっていますが、“彼は時務に関する論著は多いのだが、しかし学理の見るべきものほとんどまれなり”という評価を与えています。つまり、学問的な体系性という点では、松陰にあまり見るべきものはないのではないか。それよりも状況的な発言が松陰には多かったのではないのか。井上はこういう言い方をしているのです。
この評は、その後もかなり共有されています。後で、松陰の私書だと思われる『講孟余話』の話をしようと思いますが、本格的に『講孟余話』について論じたものは、実はあまり多くありません。これには、井上のこの低評価の影響もあるのかなという気もしています。
●井上哲次郎の松陰評(2)教育家
井上は没後50年の記念大会で何を演説したのか。それに関して少し申し上げておきたいと思います。その追頌演説の冒頭でこういうことを言っています。
“吉田松陰先生は幕末の偉人であります。さうして此人は、青年の模範とすべき人で又政治家の模範とすべき人であります。それから又教育家の模範とすべき人でもあると考へまする。”
ここで、井上は教育者・松陰というイメージを出しています。もちろん松下村塾の存在は大きいですから、松陰が教育者として大変な影響力を持ったのは疑いようがありません。それを前提にしても、井上が「教育家」という近代的なカテゴリーに松陰を置いていったことは重要だろうと思います。つまり、体系的な思想を残した思想家というよりは、状況に対応して言論を発し、教育を通じて具体的に若い人々を育てていく方に松陰のアクセントがあることを、井上は明らかにしていったわけです。
これが間違いかといえば、もちろん間違いではないと思いますが、松陰という人物を捉えていく場合、私はこのフレームワーク(枠組み)をいったんは疑っておかなければ、松陰をつかまえることはなかなかできないのではないかと思っています。今の時点で私がどこまでできるかは甚だ心もとない気もしますが、どうも松陰はこういうカテゴリーに収まらないという気がしています。いずれにせよ、これが戦前の松陰像を、一つ大きくつくり上げた見方だろうと思います。
●奈良本辰也の松陰像(1)史論家
では、奈良本辰也先生の『吉田松陰』の中で松陰の思想はどう捉えられていたか。これが非常に面白いのです。奈良本先生はこのようなことを言っていました。
“松陰の公武合体思想が、その底に封建制度に対する根本的な疑問を持っていたとすれば、それは何によるものであろうか。それが絶対主義に固有な、民政に対...