●松陰の兵学眼があってこそ
それでは『講孟余話』に入りたいと思います。吉田松陰は、安政2(1855)年6月に野山獄で『孟子』の輪講を開始し、翌安政3(1856)年3月に講読を終了したそうです。『講孟余話』、別名『講孟箚記』は、安政3年6月に完成していますので、読み始めてわずか1年で書き切った本ということになります。
管見の限りでこの『講孟余話』について深く切り込んだのは、野口武彦先生の本だろうと思います。『王道と革命の間 日本思想と孟子問題』(1986年)という本です。この中で野口先生は、松陰にとって孟子の思想とは何だったのかということに相当深く踏み込んでいます。野口先生の議論を簡単に紹介したいと思います。
“松陰が『孟子』を読みやぶったのは、よくいわれるように国体論の一点にあったのではない。その炯々(けいけい)たる兵学眼(※1)が『孟子』の行間紙背をつらぬいたところにこそ、この経学書(※2)をそれ以上にアクチュアルな書物として読みぬいた秘密があったのである。”
※1:吉田家を継ぐ時、吉田松陰は兵学を修めていたが、それに触れて「その炯々たる兵学眼」と言っている。
※2:『孟子』のこと
これは非常に面白い捉え方だと思います。野口先生は他にも、『江戸の兵学思想』(1991年)という本を書いていて、そこでも松陰を扱っていますので、詳細はそちらをお読みいただければと思います。
●新しい性質の「革命」の問題提起
あと二つ、読みたいと思います。国体の問題、そして革命の問題に触れたところで、野口先生はこんなことを言っています。
“日本の朝廷は、天照大神の子孫が天壌無窮に皇統を伝えているものであって、天が命じ、また天の廃した前王朝を討って易姓革命を行う中国とは異なる。ここまでの主張は、同時代の水戸学にもあった皇朝主義的歴史観の考え方である。しかし、松陰の思考の特色は、彼我の差異(※1)をもはや普遍的な可否の問題としては考えず、漢土(※2)の易姓革命論のことは当初から議論の埒外におくというかたちで、比較それ自体を拒否しながら出発した点にある。そして、そのことは、松陰がここにまったく新しい性質の「革命」の問題を提起しつつあることを意味している。「征夷をして足利氏の曠職(こうしょく)(※3)の如くならしめば、直ちに是れを廃するも可なり」。これは明らかに、現...