●「天下は一人の天下なり」
吉田松陰の思想で大変面白いものがあります。松陰は『講孟余話』の他にもいろいろな文書に書いているのですが、例えば非常に有名なところで、「天下は一人(いちにん)の天下あらず」というものがあります。これは中国で主張された考えです。天下は私(私物化)するものではない。天下は天下のための天下である、ということです。これは一見すると非常にもっともな意見だと思いますが、それに対して松陰は違うとして、「天下は一人の天下である」と言っていくわけです。もちろん、日本のことを念頭に置いて、です。
ですが、この「一人の天下」という場合、この「一人」にはものすごい負荷がかかりますね。以前に決断の話をしましたが、「一人の天下」として天下を背負える人は、そう簡単にいるわけではないのです。「天下は一人の天下である」と述べることで、松陰はものすごく大きな負荷をそこにかけ、単純に大きな原理としての天下ではなく、小さな原理を突破して普遍性に達する道を模索しているということが考えられるかと思います。
●朝廷への要求(1)外夷討伐の正論確立へ
もう一つ、紹介しようと思うのは、上記のように、非常に強い負荷がかけられる天皇に対して何を言っているかということです。こんなことを言っています。
“私の見解では、天皇みずからが、天下に勅をお下しになり、あらゆる忠臣義士を御召集になり、また、尾張・水戸・越前の諸藩をはじめ、正義の士で処罰されたり、あるいは有志の士でも下賤の身分ゆえにうずもれている者をことごとく天皇の御前にお集めになり、外夷討伐の正論を堂々と確立されたいのである。”
単なる尊皇攘夷の思想だと読まれかねないところなのですが、よく考えてみれば、天皇にこういうことを要求しているわけです。ここで松陰は、ある種ものすごく政治的な介入をしているわけです。それが日本の場合は可能なのだと、松陰は考えているということです。
松陰が非常に原理的な考え方をしたことは、彼の魅力でもあると同時に、簡単に悪用される危険性をはらんでいます。ただ日本という原理を考え抜いておかないことには、普遍的な原理に対しても関係はつくれません。彼はやはりヨーロッパのことを見ていて、ヨーロッパの兵学の方が優れていると分かっているわけです。その上で、日本は原理を確立しなければ太刀打ちできないのだという思いを持っていたのだろうと思います。これこそまさに「現在進行形の思想」だと私は思っています。そして今でも、松陰の思想から進んだところで私たちが考えているとはそれほど思えないのです。
●朝廷への要求(2)分け隔てなく集める
最後に、もう一つだけ紹介したいのは、「教育家・松陰」に関わってくることです。先ほど朝廷、すなわち天皇が勅命を下すことを要求すると言いましたが、松陰はこんなことを言っています。
“事は、勅諚によって強く仰せ出されれば、朝廷のお考えのとおりに行なわれるはずですけれども、実は朝廷が事実をもって手本をお示しにならないと十分とは申しかねます。”
松陰は、朝廷(天皇)にさらに要求するのです。
“右のことでさし当たり私が考えますのは、学校をつくることです。京都に文武を兼ね備えた大学校をお建てになり、上は皇子・皇孫から下は庶民に至るまで、貴賤尊卑のわけへだてなくいっしょにし、文武の講習を中心として、天下の英雄豪傑をここに集めたいと存じます。”
つまり、分け隔てなく全部集めるというわけです。松陰は原理的に考えますので、突破してしまうのです。こういう構想力は、非常に面白い、というよりも言葉の正確な意味でクリティカル(決定的・危機的)な構想だろうという気がします。
●山縣太華とのクリティカルな議論
実はこの『講孟余話』について、松陰は、長州藩にあった明倫館という学校の老中である山縣太華という人物に批評を求めています。この太華という人物は、非常に面白く、重要な思想家だという気がしていますが、松陰に対して非常に厳しい批判をしています。先ほど申し上げたように、松陰は原理の問題を考えています。それに対して、太華は朱子学者なので、中国の普遍性を、ある意味で信じているのです。
松陰に対し、太華はこういう批評をしています。聖賢におもねってはいけないという箇所で、その例として、孔子や孟子が他国に行ったことを松陰は批判していると言いましたが、それに対して太華はこう反論します。
“道に經あり、權あり、一概に論ずべからず。”
「經」とは、恒常的、あるいはレギュラーという意味です。「權」とは、イレギュラー、あるいは仮の、状況に応じた、という意味です。例えば、権現さまと言いますが、あれは、仮にそこにある種の神性が表れている、あるいは仮託されているという...